-神話と謎の熊野紀行 その1- 第27回 |
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紀伊半島の南端に潮岬がある。黒潮洗う潮岬といわれるように、潮岬の南沖を黒潮の本流が西から東方の伊豆諸島へと流れている。紀伊半島に沿った東側は熊野灘と呼ばれる海の難所であり、遮るもの無く北太平洋に連なっている。潮岬を回り込むと東岸には南から順に「くじら」の太地湾、勝浦漁港、那智湾が連なっており、この湾には熊野那智大社の祀られる那智の滝から発する那智川が流れ込んでいる。宇久井港を過ぎ目覚山を迂回して、北に進むと熊野川の河口に当り、熊野速玉大社の祀られる新宮である。この熊野川を遡り北西の方向に熊野の山並みを分け入ると熊野本宮大社の旧社地「大齊原(おおゆのはら)」に至る。この三つが熊野三山と呼ばれ平安時代に盛んであった「熊野詣」の聖地である。 縄文の時代から、海の民(海人族)は潮と風に乗って断続的に南から列島にやってきた。次いで大規模な渡来が春秋・戦国及び漢楚の興亡の結果として発生し、日本列島では弥生と呼ばれる時代が始まることになった。江南から北の対馬海峡を目指すと、海流と南西風を旨く利用できれば、海峡両側の朝鮮半島南部かまたは九州西・北部に達する確率は相当に高く、それらの地への渡来が主流を成していることは考古学的証拠が示すとおりである。しかし気象条件に恵まれない場合は、北は対馬海峡をすり抜けて隠岐島以北さらに能登半島を越えて流されてしまう、南は太平洋を黒潮本流に乗り潮岬にぶつかる、さらに伊豆まで行ってしまうということが実際に度々起こり、その証拠も色々と見出されている。 紀伊半島南部の熊野に、渡来してきたという二つの古い伝承・神話が存在する。第一は秦の始皇帝の時代、皇帝の命令により不老不死の霊薬を求めて来たという徐福の指揮する船団の渡来である。童男女3千人、五穀の種子や食料、その他多くの技術者を乗せた船団が東方の蓬莱島に向けて出航したが、帰ることはなかったと中国の史書にある。その徐福渡来の伝承地として、JR新宮駅から東に100mのところに「徐福の墓」があって、その周辺は「徐福公園」として整備されており、境内には霊薬「天台烏薬」の原木であるクスノキ科の常緑灌木が植えられている。またその周辺地に、秦徐福上陸の地記念碑や徐福の宮跡石碑も建てられている。 第二は記紀にある神日本磐余彦(神武)の東征である。難波から生駒越えで大和に入ろうとした神武軍は長髄彦らに阻止されて、熊野回りの迂回路を選ぶことにする。その上陸の地と伝承があるのは那智勝浦町浜の宮である。日本書記によれば上陸した神武軍は高天原の祖神の指令を受けた高倉下や八咫烏の助けを借りつつ、現在の東熊野街道に相当する経路を、様々の試練を克服し吉野・宇陀を経て進軍して、目標の大和入りを達成したという。記紀の神話だけでなく、その道に沿う地域には独特の伝承やその地の神社で現在も行われている祭りなどの行事が残されている。また熊野に至る神武の航路は必ずしも瀬戸内海経由とは限らないという説も存在する。 連休明けの5月、その新緑の熊野へ2泊3日のドライブ旅行を行った。往路は五条から十津川街道を南下、熊野本宮に詣で那智勝浦に一泊、翌朝、那智の滝を目指して登り熊野那智大社・青岸渡寺を訪れた後、新宮へと移動、神倉神社・熊野速玉神社に参詣、近くの徐福関係の伝承地を見学し、熊野川を渡って三重県の熊野市まで行きその日は一泊した。帰路は北山川に沿う東熊野街道を北上、伯母が峰を新トンネルでくぐって丹生川上神社上社に立ちよった後、吉野川に沿って下り国栖から大宇陀に抜けて桜井に至った。古代史ドライブ旅行記は次回以降に詳しく述べることとし、今回は神話と謎に満ちている熊野への二つの渡来、徐福と神武について論ぜられている興味有る説を紹介しておこうと思う。
徐福伝説に否定的な二つの論点に対する茂在氏の反論を以下に紹介する。まず紀元前3世紀という古代に多人数を中国から日本に運べる船が作れたかという疑問には、古代大型船を研究した専門的立場から「ハードとして可能であった」という論証を同氏は明快に提示している。即ち、中国の文献に春秋時代の戦記をはじめとして、戦国時代には「秦の西に大船あり、粟を積んで楚に至る三千里、一舫に五十人と三ヶ月の食を載す、一日行くこと三百里」など、船の記録が紀元前数世紀に明記されている。また奈良県天理市の清水風遺跡で1986年発掘された土器片の船の線刻画を茂在氏自らが復元してみると、36本の櫂と中央に帆柱を持つ長さ25m、船員だけで37人乗り組みのゴンドラ型外洋船・弥生時代の大船であることが判った。次に、徐福到来の伝承地が20箇所もあるのは不合理であるという疑問には、徐福の計画は大規模であったため、大船団にならざるを得なかった。その大船団が一つの港にだけ集中して到着することは当時の航海術の水準からはあり得ず、徐福船団の到着地が各地に広がったのは当然のことである。さらに、渡来の伝説地がすべて黒潮またはその分流の洗う地であることは、中国大陸から日本へ黒潮に乗って来航したと云うことで、きわめて合理的である。この茂在氏の反論は納得できると考える。
記紀に記載される神話は戦前の皇国史観では批判すべからざる金科玉条とされてきたが、敗戦後は一転して、神話は実は虚妄のものであるという津田史学に依拠する考えが正統視され、記紀には懐疑的な姿勢が史学の主流を成していた。しかし、鉄剣銘文などをはじめ記紀の記述を裏付ける発見がなされるにおよび、記紀を史料として再評価しようという機運が醸成されるようになった。私ら小学生低学年から骨の髄まで神話を教え込まれた世代は、「神武東征」などの再評価の議論の進め方には違和感を感ずることが多くあった。タイミング良くその頃(2008)、桐村英一郎氏が「海(あま)から天(あま)へ、熊野・大和幻視行」を朝日新聞に連載発表し、表題の示す如く「神武東征」を含む斬新な仮説を現地調査により裏付けていく手法を用いたルポの内容は興味深いものであった。 桐村氏の仮説の一部分を概説すると次の如くである。紀伊半島に黒潮などに乗って縄文時代から断続的にやってきた海の民達は、内陸への通路となった川を遡ったり、山を越えたりして半島の奥地に進み定着していった。彼等は恐ろしいが恩恵ももたらしてくれるものを神として畏怖し崇拝する自然信仰を持っていた。そして山中他界観がそうした観念を基層にして成立していた。その地に、祖先神が天から降臨するという、垂直的世界観をもった物部一族の人たちが大和からやってきた。そこにさらに大和王権の創立者「神日本磐余彦」(神武)達が到着する。彼等は海の彼方に常世を想定する水平的世界観を受け継いでいた。熊野に上陸して間もない戦闘でピンチに立たされた神武は物部一族の高倉下に助けられた。その高倉下は神武に帰順し、このことは大和王権の創始者に水平から垂直へ世界観を転換するヒントを与えた。海と別れた大和王権の創始者達は、自分達の垂直的世界観を作り上げるために、「高天原」や「天照大神」という観念を作った。その枠組み転換は記紀で仕上がったが、装飾・消去出来ない部分が残った。 桐村氏は様々な仮説を組み立てつつ、熊野から大和、そして伊勢までゆかりの場所を訪ね歩き、50回にわたる連載のルポを行っている。彼は上述のように神武東征に関わる謎のキーパーソンとして物部一族の高倉下を指名した。その高倉下は大齊原の地主であり、彼を祭神とする神社がその近くに多くある事を示した。新宮市の神倉神社の御燈祭は神武一行の登った巨岩「ゴトビキ岩」で神事が行われ、山上で点火された松明を掲げた男達が一斉に石段を駆け下りる。闇を裂く縦の火流は高倉下の後世に伝えるメッセージであろうと桐村氏は解釈している。神武と高倉下の出会いから、話題は一転し高倉下の移った越の弥彦神社となるなど、同氏の調査体験ルポは多岐に亘り極めて膨大で詳細である。桐村氏は朝日新聞連載記事にさらに加筆し、 2010年「大和王権幻視行」を上梓している。 |
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文献 1)茂在寅男 徐福は日本に来たか 史話 日本の古代@ p217 作品社 2003 2)桐村栄一郎 ヤマト王権幻視行 熊野・大和・伊勢 方丈社出版 2010 |
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(岡野 実) | |||||
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