−大溝城−
                    第46回
▲乙女ヶ池 大溝城の外堀を兼ねている。
 織田信長は桶狭間で駿河の今川義元を討ち取り徳川家康と同盟を結んだ。続いて北近江の浅井長政と同盟を結んで美濃の斎藤龍興を追い出し、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になる。
1568年9月には、足利義昭から「松永久秀と三好三人衆追討」の要請を受けて上洛に向けて尾張を出発。途中、南近江では六角義賢・義治父子の抵抗を受けたが、これを滅ぼして上洛を果たした。松永・三好三人衆の政権は崩壊して足利義昭を15代将軍として擁立したのである。

 これ以降、信長は勢力を拡大して行ったが、越前の朝倉義景は度重なる上洛命令に応じなかった。1570年4月、信長は朝倉義景を討伐するため、徳川家康とともに越前方面へ侵攻を開始した。
もともと浅井氏と朝倉氏は同盟関係にあり、信長が浅井長政と同盟を結ぶときに「織田は朝倉に進軍せず。また、どのような事態でも朝倉に進軍する時は必ず一報をいれる」という約束をしていた。

 ところが信長はこの約束を無視してしまったのだ。これに対して浅井長政は織田との同盟を反古にして、妻の市が信長の妹にも関わらず敵対し攻撃することを決意し、織田徳川軍が朝倉軍と戦っている背後から浅井軍は急襲しようとしたのである。
織田徳川軍は挟み撃ちにされる格好になる。これで織田徳川軍は総崩れとなり、信長も絶体絶命の危機に陥ったが、配下の池田勝正(摂津守護)の働きと近江の豪族の朽木元綱の協力を得て、やっとのことで逃げ延びることができた。

 信長はこの報復のために3万弱の兵を集め再び出陣。こうして同年6月28日、有名な姉川の戦いが始まったのである。
この戦いで浅井側の先鋒である磯野員昌(いそのかずまさ)率いる軍は坂井政尚、池田恒興、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の構えのうち11段を打ち破ったという。信長も再び命の危険を感じると同時に敵ながらあっぱれな人物と印象付けられたことだろう。しかしこのときは徳川家康の援軍が駆けつけて事なきを得た。
この戦いでの死者は浅井朝倉側で1800人、織田徳川側で800人であったという。

 姉川の戦いでも織田徳川軍と浅井朝倉軍の決着は着かなかった。
その後、浅井朝倉軍は比叡山の僧兵や一向宗と結びつき、湖西方面でなおも激しい攻防戦が繰り広げられた。やがてこの対立が信長による比叡山の焼き討ちに繋がっていくのである。

信長は尾張・美濃と京都に拠点を持ち、この両地点を結ぶ街道を確保する必要があった。それには北近江に領地を構える浅井氏を討伐しなければならなかった。たまたまではあるが、姉川の戦いにより浅井氏の領地が南北に二分されている。南部の佐和山城(城主は前述の磯野員昌)は孤立して物資の補給すらままならなくなっていた。
木下秀吉はこの城を落とすために、浅井の家中に磯野員昌に翻意ありとの流言を流した。
浅井長政は員昌に関する流言を信じて佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたことから1571年2月24日、員昌はやむなく信長の軍門に下った。

 磯野員昌の勇猛果敢な戦の実績が信長に気に入られたのか、員昌は新庄(新旭町)城主に取り立てられ、高島郡を与えられるという破格の待遇を与えられた。
この城で織田軍の一翼を担って越前一向一揆の鎮圧や信長を狙撃した杉谷善住坊の捕縛などに従事した。
ところが1578年2月3日、信長の逆鱗に触れてしまったのか、所領を没収のうえ高野山に追放されてしまった。
そして高島郡は信長の甥(弟信行の長男)に当たる織田信澄(員昌の養子でもあった)に与えられた。
▲大溝城天守閣址の石垣
城はJR近江高島駅のすぐ近くの乙女ヶ池畔に建てることになった。この地に城を建てた理由は湖東に安土城を建てたことに呼応して、湖西の守りを強化することにあったのだろう。この辺りは湖西の山麓から琵琶湖までの距離が僅か数百メートルと狭くなっており、都に上る人の往来を完璧に監視できる場所なのである。

この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んで築いた城で、明智光秀の縄張り(設計)で建設されたと伝わる。
城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
 ところが、天正10年(1582)6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。享年28歳。

▲野面積みの石垣
 信澄の後には、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わったが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となっていた。

城自体は1615(元和元)年の一国一城令により、大溝城は解体され甲賀市水口の古城山(水口岡山城)に移築された。現在は堀と石垣しか残っていない。

 これは庭師の方に聞いた話ではあるが「穴太積みとは石の声を聞くこと」に極意があるのだそうだ。石と石が密に積み重なりあって上に伸び、石積みの裏にはこぶし大の裏込め石を入れることで排水対策をし、安定させて倒壊を防いでいる。
この話からして天守閣の石積みは穴太積みではなく野面積みと言われるものであろう。石と石の隙間も大きく一部は倒壊していた。

▲高島市の造り酒屋
▲水路のある町
 城がなくなったとはいえ城下町は存在している。
1619(元和5)年、分部光信(わけべ みつのぶ)が伊勢国上野より転封してきた。


光信は二条城や駿府城の普請に携わり、大坂冬の陣では本多忠政に属して戦い、夏の陣でも功を挙げてきた人物である。
江戸時代の外様大名ではあったが、光信は城下を整備して水路を巡らし、領民に金子を分け与えるなど善政を敷いたと言われている。

 高島市の街中を歩いてみると、今もどっしりした商家や造り酒屋の建物が残り、往時の繁栄を偲ぶことができる。


 この地はまた、優れた近江商人を輩出した土地でもあった。岩手県遠野に新天地を求めた村井新七、「井筒屋善助店」を開いて陸羽地方との交易で成功した小野善助などの人物がいた。

私には、右の綺麗な水が流れている勝野地区の風景は落ち着きと安心感すら覚える。

これも分部氏の豊かな人柄と善政によって育まれてきたからこそ、醸しだされてくる歴史の重みなのだろうか。

参考文献 : 現地案内板等による。
(遠藤真治記)

ぶらり近江のみち
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