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自転車にまたがり、宇治を出発したのが朝の6時だった。 瀬田の唐橋→唐崎→堅田の浮御堂→小野では第45回で取り上げた小野一族の神社を見学→蓬莱→雄松崎→白髭神社→高島市では第46回で取り上げた大溝城址を見学→風車村→今津と快調に走ってきた。 今回は琵琶湖の北端を東に向かう。初めの地域は海津である。この町に入った頃には既に3時になっていた。急いで走って日帰りするよりは、のんびり琵琶湖の風景を眺め、その地の史跡などを訪れて楽しんでこよう。暗くなってくればそこで一泊することにすればいいだろう。 |
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この桜は、昭和の初め頃、道路補修作業員の宗戸清七さん(故人)が仕事の合間に自費で桜の苗木を購入し植ていたことに始まる。やがてこの植樹のことが人々に知れわたるようになり、村の青年団も協力することになった。昭和11年の大崎トンネル開通を機に当時の海津村が植樹をすることになり、今では「日本のさくら名所百選」に選ばれるようにまでなった。 この桜は湖北の厳しい自然のためか、湖南地方より1週間から10日前後遅れて見頃となるようだ。 桜のトンネルの中を走ると岬の先端近くの山腹に大崎観音の名で親しまれている大崎寺がある。創建は702年と伝わる古寺で本尊の千手観音立像(秘仏)は開祖である泰澄大師(たいちょうだいし)の作と伝えられている。 戦国時代に入って世の中は人心、文化、階級制度、経済などあらゆる面で乱れ荒廃した。大崎寺も多くの古寺と同じように衰微していった。豊臣秀吉が天下を獲ると、安定社会を目指して、いち早く社会復興に取り掛かった。 秀吉の多くの復興劇の事績の中で大崎寺も対象となったのは、大崎寺が奈良の興福寺の末寺であったことと、衰微前の大崎寺は三十九もの僧坊を有する大寺院であったことが理由だろう。 しかしこの時期、全国の荒廃した寺院が集中的に再建される事になったため、建築資材が不足した。そのため大崎寺の復興には焼け残った安土城の用材が使用された。 本堂が「安土の血天井」と言われるのはこのためであるが、実際にはその後、本堂は改築され、血天井の用材は同寺境内にある阿弥陀堂の天井に使われた。 寺の周辺の湖面を見ると、湖岸線にいくつもの巨岩が突き出しているのが見える。琵琶湖の形成時から5百万年経った今、これは琵琶湖の波による浸食なのか、はたまた地殻変動による隆起なのか私にはわからない。 しかし、この眺望は悠久の時間の流れの中で自然が織りなす、匠の技とも言うべき造形美を見せている。この景色は琵琶湖の湖岸としては珍しい姿で「暁霧(ぎょうむ)・海津大崎の岩礁」と呼ばれ、琵琶湖八景の1つに数えられている。 海津大崎を越え、葛籠尾(つづらお)を越えると、琵琶湖最北端の塩津に到着する。ここまでくれば日本海までは20km程度という距離だ。自転車であるとはいえ、宇治から自分の足で日本海まで行けると思うと、妙な達成感が込み上げてきた。敦賀まで行ってみるか! そう思ってはみたが、今回は琵琶湖一周が目的、勇み立つ心を抑えて塩津を見学することにした。 |
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但し、この池は「中古、大地震の爲、埋没し潮汐も又出でず、製塩に用いた大釜は湖底に沈めたりと伝う」と案内板は続いている。これでは地名の由来についてはどちらの説が正しいのか判断できない。 しかし、塩津が交通の要衝であったことは次の事実からも明らかである。 塩津湾の近辺では古保利(こほり)古墳群と塩津丸山古墳群が築かれ、港を支配していた豪族が栄えていた。 727年、渤海国の使者が日本と通好を開始しようとして敦賀の松原に寄港し、その後少なくとも34回は来日しているが、彼らは松原客館に泊まって平城京や平安京に向かっている。その間の道のりは北陸道または塩津港を経由したと考えられている。 764年9月の藤原仲麻呂の乱のとき、仲麻呂軍は愛発関(あらちのせき:近江と越前の国境の関所)を越えて息子がいる越前に向かおうとして、この塩津に上陸している。
996年9月には、紫式部は越前に赴任する父の藤原為時に伴われて塩津を訪れたことを「紫式部集」に書き残している。 「塩津山といふ道のいと繁きを 賎(しず)の男のあやしきさまどもして『なおからき道なりや』といふを聞きて『知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと』」。 「塩津山という道にたいそう草木が茂り、輿(こし)を担いで運ぶ男たちが粗末な身なりをして『何度歩いてもやっぱり歩きにくい道だなあ』と言うのを聞いて、『お前達も知っているでしょう。歩き慣れている塩津山も世渡りの道としては辛く塩辛いものだということが』」。
平成18年度から滋賀県教育委員会による「塩津港遺跡発掘調査」が行われている。その調査では50m四方の神社跡の他、これまでに以下のものが発掘された。 @須恵器(すえき)、土師器(はじき)、陶磁器などの 生活用品。 A神仏への誓約を書いた起請文(きしょうもん)には、 水運業者らが「荷物を少しでも失ったら神罰を受けます」 などと書かれている国内最長の木簡など多数。 B平安時代後期の神社跡およびその関連施設に寺院の飾りに使われる 木製華鬘(けまん:花の輪をかたちどった装飾具)。 C11〜12世紀とみられる木製神像5体(高さ10.5〜15.2cm)。 D幣串(へいぐし)、注連縄(しめなわ)などの祭祀具。 E長さ17.3cm、幅4.0cmの一部に着色がある船形木製品などである。 これらの検出物や出土品は貴重なもので、華鬘は寺院の建物の柱の上部に飾られるものである。神社に華鬘があったとすれば神仏習合形態であったことを示しているのかもしれない。 神像については、本来神への信仰は偶像崇拝されるものではなく、岩や山や木など自然の中に神が降臨してくるものである。 したがって神社といえども神像は置かれなかった。これも仏教の影響を受けてのことだろう。現存最古級の神像は、東寺や薬師寺の鎮守社にまつられている9世紀とみられる僧形八幡三神像などがある。 出土した神像は劣化しているものの、2体は僅かながら顔の表情も見ることができるもので、男神像が2体、女神像が3体である。不明な点も多いが当時の神社信仰の姿がうかがえる貴重な史料であることは間違いがない。 本年(平成21年)2月26日、県教委が平安末期の精巧な船形木製品が見つかったと発表した。 それによると平安末期の船形でありながら、室町期に登場したとされる構造を持っており、実際にこの形の船が浮かんでいたとすれば、これまでの常識を破り、船の進歩の過程を200年ほど遡ることになるらしい。 湖上交通と陸上交通の接点であったことが大型化も可能な船を製作して大量の物資を運ぶことを考えていたのかも知れない。 塩津は渤海国の使節団が通過し、藤原仲麻呂が上陸して戦い、紫式部がここで旅の安全を祈願し、港町として栄えていたことを知らず、全く徒然草に出てくる仁和寺の法師のそのものであった。 早や、5時を過ぎてしまった。秋の日はつるべ落とし、急いで次の町に向かう事にしよう。 |
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(遠藤真治記) |
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参考: 海津大崎の歴史(社団法人 びわ湖高島観光協会) 塩津港遺跡現地説明会資料(調査主体 滋賀県教育委員会文化財保護課) (調査機関 財団法人滋賀県文化財保護協会) |
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