JRびわ湖線草津駅で草津線に乗り換え、一つ目の「手原駅」で下車。

旧東海道筋の近代化を眺めながら石部方面に向かうと約20分ほどで、和中散本舗に着く(写真右:旧東海道の一角を占める和中散本舗)。

その昔、元和(1640年代)の頃この辺り一帯は、梅の大樹が多かったところから「梅の木村」と呼ばれていた。村人達はその木の下で道中薬「和中散」という腹痛薬を作り、売っていた。
今は、そんなのどかな風情はかけらもないが、当時、諸大名、商人、文化人など多くの人が行き来したそんな旧東海道筋に和中散本舗は建っている。間口22メートル、奥行き20メートル、卯建壁(うだつかべ)を配した豪華な建物で、江戸中期の商人たちが苦闘の末、築き上げた商魂が今もみなぎっているようだ。

和中散本舗は当代の大角弥右衛門さんのご先祖が同業5人の本家(ぜさい)となって創業された。

元和4年大角弥右衛門さんは京都の名医、半井ト養(なからいぼくよう)の娘さんを嫁にもらい、その時半井さんから届けられた引き出物が和中散、竒妙丸(小児薬)であった。彼はその和中散、竒妙丸などの製法を学び本格的に製薬を始めた。 
                   
現存する建物は、慶長年間(1596年)に建てられたといわれている。
当時、関が原の戦が終わったころで、近江路は江戸、大阪方面からの出入りが厳しい時代でもあったようだ。


こんな時、慶長16年(1611年)大坂夏の陣の前、徳川家康が京都への所用の途中、長原(現在の米原町あたり)で腹痛を起こした。薬師から連絡を受けた典医本間大安が和中散本舗を訪ね、薬を持ち帰って家康に与えたところ、一気に快復、その後、京、大阪からの帰りにはしばしば和中散を訪ね、休憩したという。こうした情報が「御大名様方御入駕帳」や「東海道名所図会」などによって紹介されるにつれて、本舗を訪ねる大名や公卿が増え「梅ノ木 小休 本陣」とも呼ばれるようになった。
また、和中散では、庭園の造成や本陣の整備が進められ、これが店の繁栄につながって行った(写真左は、本舗裏に作られた庭園。平成13年、国指定庭園となる)。

 近江路とりわけ甲賀方面では昔から配置薬作りが盛んで、当時の売薬人は東海道、中仙道、北陸道などを経て江戸やみちのくあたりまで商品の交換に行き来していた。こうした売薬人の薬事情報の伝達が、和中散の発展に大きな役割を果たしていたともいえる。
 なかでも明治天皇は、即位以来4回も和中散を訪ねられ、特に庭園がお気に入りであった。また、散策の際お使いになったいぐさ草履や、冬の寒い日に昭憲皇后と共に手を温められた桐火桶が和中散本舗の家宝として今も客間に大切に保管されている。

 和中散本舗をお訪ねになって是非ご覧頂きたいのは、当時の製薬工場の機械設備。
 工場は建物の右端にあって広さは約50平方メートル。


中の機械は全て樫の木でつくられ、直径4メートルの大きな回転枠と、その動力を、石臼の回転に伝え、薬草を粉末化するという複雑な歯車の組み合わせから成っている。動力源として常時2人の男性が回転枠の中に入り、彼等が歩き出すと石臼が回るという仕掛けになっている(写真右:リスカゴと呼ばれる和中散製薬機)。
この機械は創業以来、何回も改良を加えられたようで、黒光りした機械が時代の変化を物語っている。当時、和中散の人達はこの機械を「リスカゴ」と呼んでいたという。リスの代わりになった人間にとってはかなり厳しい労働であったようだ。




●重要文化財大角家和中散本舗 栗東市六地蔵402 県文化財保護委員会常務理事 大角弥右衛門氏(77)。
※工場見学希望の方はお電話にて予約が必要です。TEL077-552-0971            (筆者:曽我一夫)  
                                             
第2回  −大角家和中散本舗(重要文化財)を訪ねて−128号−    

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