野洲町立歴史民俗資料館 宮田賢幸館長:野洲郡野洲町辻町57-1
国道1号線五条バイパスを一路草津市に向かい、栗東市の交差点で一号線と分かれて左折、8号線に入る。連日35度を上回る炎暑下、交通量は増え、渋滞の連続の中、野洲川を渡り、三上山(近江富士)を過ぎて滋賀県立希望ヶ丘文化公園の入り口に向かって左折、8号線ガード下を抜けると間もなく銅鐸博物館に着く。
場所柄、三上山々麓の緑陰深いところと想像していたが、博物館の裏山一帯の山々は、高さはせいぜい200メートル、そのほかはほとんどが小高い丘。同館発行の研究資料の一節によると、江戸時代中頃寛保年間(1741−1744)俳人・松尾芭蕉たちは、湖南の山々を眺めて「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。
すなわち三上山とそばの妙光寺山を除く野洲の山々は、夏なのに緑のない禿山だったようだ。この辺は大岩山と呼ばれ、花崗岩の風化土壌で、土砂の流出が著しく、これを防ぐ砂防工事が後世幾度も行われてきたようだ。
またこれが原因ともなって、明治14年8月、14個の銅鐸が発見されたのに続いて、禿山へ子供が小鳥を取りに行って見つけ、さらに翌日近くの人々によって高さ134.7センチ、重さ45.47キログラム。日本最大の銅鐸(写真右)を含む十個の銅鐸が掘り出されたのだ。
日本で一番早く銅鐸が発掘されたのは島根県加茂町で、弥生中期のものが39個で、古さと数の上で日本一といわれている。野洲町では24個が出土し、ほとんどが弥生後期のものである。
この銅鐸博物館は昭和63年に建設され(現在地23,323平方メートルに、鉄骨二階建)、日本で出土した数多くの銅鐸が展示されている。
一階常設展示室1 銅鐸の謎 銅鐸の発掘された場所および年代と村の生い立ち、他国との比などを年代グラフにして現代人に時代の流れと当時の各地の模様などがよく理解できるように展示。
また銅鐸が何のために使われ、どのように利用されたのか?現在まだ解明されてはいないが、その間、銅鐸がどのように使われていたかが理解しやすくまとめられている。
一階常設展示室2 大岩山銅鐸 日本最大の銅鐸をはじめ、1881年に出土した8個(写真左)と、1962年に発掘された8個、そのほかは特別出品されている石山寺辺町で出土した90.9センチの銅鐸、1890年竜王山で発掘された銅鐸2個、彦根と栗東市で発掘された日本最小の小銅鐸(高さ3.4センチ、重さ五5.2グラム2個)静岡で発掘された鹿と鳥の模様が入った銅鐸。
この銅鐸は弥生前期のもので東京国博に展示されていたものを野洲博物館に移して展示、また島根県斐川町で発掘された荒神谷の銅鐸4個などが展示されている(写真右)。
二階企画展示室 野洲の歴史と民族 野洲の人たちの銅鐸発掘とともに暮らしてきた生活の様子や大岩山で発掘された数々の三角縁神獣鏡や数多くの銅鐸、江戸時代、参勤交代のみぎり、野洲で休憩や宿泊をした歴代将軍達の宿泊施設の模型や、三上山の秋祭りに奉納するずいき芋の茎でつくった珍しいずいきみこしなどが展示されている。
銅鐸は、研究家達の課題にもかかわらず、何に使われていたか?明確な答えは出ていないが、野洲の人達は、祖先が米づくりを始め、そして金属を手にした弥生時代後期に、たまたま発掘した銅鐸を鳴りものとして飾り、毎年の収穫期に、村人こぞって銅鐸を打ち鳴らして豊作を喜び合ったと考えている。
祭りが終わると銅鐸類は取り外し、村人たちの居住地を荒らす悪い神や敵に入り込まれないよう境界近くの傾斜地に埋め戻し、銅鐸の土に宿る地霊や米の稲魂に感謝と同時に村人達の安穏を祈ったという。
こうした祭りは、各地で支配者が割拠しはじめた古墳時代を迎える頃になると銅鐸を使った祭りは終わりを告げるようになったといわれる。
銅鐸の時代、中国南部からベトナムにかけては、銅の太鼓を稲作の祭りに使っていた。ということは、その祭りは銅鐸の祭りと共通するところがあったと考えられ、太鼓に刻まれている農村風景からは、弥生時代の村が想像される。この太鼓は現在も同地方の祭りに使われているが、祭りが終わればすぐに太鼓を土中に埋め、次の祭りまでかくしてしまう習慣が守られている。
研究家達は『これこそが銅鐸が秘める最後の謎といえそうだ』と、新たな埋蔵物に心を躍らせている。
銅鐸博物館では、弥生の森の体験学習を開催(写真左)。土、日、祝日、夏休み期間中は予約不要。ただし火−金曜日および団体(10人以上)で体験を希望される場合は電話のこと(077-587-4410)。
(曽我一夫記)
第3回 −銅鐸博物館を訪ねて−129号−
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