國友鉄砲の里資料館 國友鉄砲鍛冶
資料館々長 國友昌三さん(74歳)
長浜市国友町380 TEL0749-62-1008
北陸自動車道長浜インターに着いたのが午前9時。彼岸はとっくに過ぎ、10月に入ったというのになんとなく暖かい。陽差しはあるのに周囲一面もやがかかり、楽しみにしていた伊吹山にはお目にかかれずの秋の一日だった。取付道路を右折、一つ目の信号を右折して北行、四つ目の信号が国友町。それを左折すると古のたたずまいを残す國友鉄砲の里に入る。ここは長浜市の東北端で、伊吹山にも近い純農村。往時國友家は、豊富で美しい高時川の水を利用して刀鍛冶一本に打ち込んでいた。
國友鉄砲の始まり 15世紀の中頃の日本は下剋上の時代、各地に群雄が割拠して大名領を形成していた。天文12年(1542)種子島の門倉岬にポルトガル船が漂着、飢えた船員が空に向けてパーンと音のする飛び道具で鳥を打ち落としているのを島民が見つけ、食べ物と鉄砲二丁と交換した。この鉄砲が鹿児島の島津公に献上され、天文13年(1544)近江の京極公を通じて國友村鍛冶・善兵衛に始めて鉄砲の注文がきた。國友鉄砲記には6か月後に六匁(もんめ)玉筒二挺を完成したと記されている。
信長が國友鉄砲に着目 島津公は、この火縄銃を床の間の飾りにしていたのを織田信長が見てすぐに國友鍛冶に発注、永禄3年(1560)の桶狭間の戦で使ったのが日本では最初といわれている。ところがこの日は、ひどい雨のうえ不意打ちの戦でもあったので鉄砲の効果は少なかったが戦には勝った。もともと火縄銃は雨に弱いのと第一射目はよいが二射目までに銃口からの手入れと火薬詰め、弾込めなどに約15秒もかかり、急を要する戦いには鉄砲よりむしろ刀、槍、弓矢の方が手早く対応出来た。
長篠の戦で成果 その後、山梨で武田勝頼の騎馬軍団の動きが活発となり、信長は国友はもとより、種子島渡りの鉄砲の産地となった堺、根来(和歌山)へも手配して1000挺の鉄砲を確保、天正3年(1575)三河長篠で勝頼と対戦した。この戦では先づ騎馬に備えて馬防柵を設けその後ろに訓練した鉄砲足軽隊を配し、敵が命中精度の高いところまで攻めてきたところで一斉
射撃するという新戦法。
当時、武田騎馬軍団は無敵といわれていたがこの戦法であえなく全滅した。以来鉄砲は戦場では必須の武器としての価値を高め、各産地に各大名の手が回ったが国友は早くから信長―秀吉―家康の御用商ともなっていたので産地を侵されることはなかった。
翌天和元年(1615)の大阪夏の陣でも六匁筒などが野戦で多く使用され、天守閣の攻撃には100匁筒などが大きな威力を発揮し、天守の火災を誘発、これが秀頼、淀君の自決を早めたという。
この両陣の戦には、國友鍛冶の職人多数が戦列に加わり、鉄砲の修理などに当たった。家康は戦後「白綾御紋付」の着物や白銀10枚を与えたほか国友村の村高900石を給付してその働きに酬いた。
太平が家業の足を引く 戦国の世の数々の戦を踏み、全国に名をはせた國友鍛冶は、夏の陣の終わりには73軒の鍛冶屋と500人におよぶ職人の集う 一大工業団地≠ノ成長していたが、寛永12年(1638)の島原の乱以降は大きな戦もなく太平の世となり天明5年(1785)には鍛冶屋は29軒に減り、職人達は長浜名物の曳山の金具づくりや花火師などに転業していた。
一方、國友家は安永7年(1778)17歳で家業を継いだ國友一貫斉が火縄銃のかたわらオランダから輸入した風砲、望遠鏡に独自な改良を加え「気砲(空気銃)」「天体望遠鏡」などを開発、家業の再生をはかった。
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第5回 − 國 友 鉄 砲 −131号−
次の目標は大阪城 天正10年(1582)信長が京都本能寺の変で自決、慶長3年(1598)秀吉が死んで二年後、家康は関ヶ原の戦で大勝を収め、慶長8年(1603)征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。家康は京都所司代を通じて大阪城攻めに必要な兵器の製作にかかり、慶長9年(1604)には砲術家稻富一夢を国友に差し向け50匁、100匁玉筒をはじめ600挺以上の三匁筒と一貫目筒まで多種の鉄砲を発注させてその機をねらっていた。
慶長19年(1614)豊臣秀頼が京都・方広寺の大仏殿に納めた釣鐘に「国家安康」と刻まれているとの情報を耳にした家康が怒り、ただちに大阪城を攻め(大阪冬の陣)備前島の片桐旦元陣所に国友などの大鉄砲300挺を並べ昼夜を問わず城中を攻撃、城内の戦意を喪失させ一挙に勝敗を決めた。
現代でも國友火縄銃は日本一 國友鉄砲の優秀さについて國友昌三さんは「原料の砂鉄が島根産だったのと、刀鍛冶でハガネの鍛え方を研究していたので銃身のひび割れなどを防いだのと戦の経験が多く、そのつど照準器などの故障か所に知恵を使い、長篠合戦では六匁筒(口径15.8mm)級で最大射程1000m、有効射程100m前後、命中精度は人馬を標的として50m、30mの距離で鉄胴具を貫通したようだ。いまでも毎年全国各地で行われる古銃の射撃コンクールで國友銃の命中率は極めて高く、これらは銃全体の緻密な仕上げに力を注いだ先人達の苦労の結晶ですよ」と目を細めていた。
(参考図書は、市立長浜城歴史博物館著『國友鉄砲鍛冶その世界』)
(曽我一夫記)
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