近江八幡の晩秋は、10月中ごろからの寒気で一挙にやってきたらしい。私が訪れた11月6日には、市のランドマーク・八幡山は赤く色づき、最近テレビや映画などで一躍有名になった八幡堀は、川沿いの樹木がすっかり秋本番。水面には古い歴史を秘める商家の白壁が鮮やかな色合いを見せていた。
近江八幡は、織田信長が天正4年(1576)安
土に築城、城下町に全国の商人が自由に出入り出来る楽市楽座を開き町の経済発展に尽くした
。これが明治、大正期まで続いた近江商人の街に発展し、八幡を中心に近郊の蒲生、神崎の商人達がてんびん棒一本を頼りに東海道、中仙道、北陸道をまたにかけ北海道や九州
にまで雄飛、近江商人独特の商法を完成した。
現在も近江八幡市の西方八幡山麓から日牟礼八幡宮を経てJR近江八幡駅に向かって東側に広がる東西10本、南北14本の碁盤模様の町並みに住時のままの建物を残し、多くの子孫が住まいとして根付いている。こんな佇まいの中に、しっとりとした明治期のハイカラな洋風建築の住まいや学校、病院などを設計、建築し近江商人の卵といわれた人達と一緒に活躍したヴォーリズというアメリカ人はどんな人だったのか。その生きざまを覘いてみた。
ヴォーリズと近江八幡の出合い
明治17年(1884)滋賀県に着任した中井弘県令(知事)は、滋賀を商人の町に≠ニの願いで大津に県立商業高校を開校した。ところが学校運営の不振に加え、かねてから近江商人発祥の地に移してほしいと要望のあった八幡、蒲生、神崎住民の声を入れて明治34年(1901)八幡に移転(7年後に県立八幡商業学校と改構)した。ヴォーリズは明治38年2月(1905)この学校に創立以来12人目の英語教師として着任した。24歳、冬の寒い日だった。近江商人の士官学校といわれ、新天地の開拓を夢見ていた生徒達には、ヴォーリズ先生はまさに文化、文明の星。当時の同校の進路調査によると、在校生の1/3が渡米したいという希望を持っていたといわれ、ヴォーリズが毎日の授業で教える世界の文化、文明だけではあき足らず、放課後学校で開いたバイブルクラスにも全校生400人中、70人を超える生徒が、自宅でも45人が参加するという盛況さ。中には洗礼を受ける生徒もいたという。
わずか2年で教師を解任
ヴォーリズは、教師と同時に宣教師という身分でもあったため教壇に就くに当たっては布教に注意するよういわれていたが、バイブルクラスの盛況さに加えて増える洗礼の数がマイナス要因となって解任を早めたようだ。退任後、ヴォーリズは完成したばかりの近江YMCAに寝泊りして京都三条YMCA会館の建築現場監督をするかたわら八幡商業学校の卒業生吉田悦蔵らとともに新たな活動を模索するうち一旦帰国した。
再度来日して新会社を設立
明治43年(1910)アメリカの建築家レスタ・チェービンと共に来日、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」(現在の近江兄弟社)を設立、さらに同校の卒業生村田幸一郎を加えて「ヴォーリズ建設設計事務所」を設立した。
当時、日本には建築士の資格制度はなく、建築体制も十分ではなかったため八幡商業出身の近江商人の卵たちは、ヴォーリズやチェービンの指導で建築家としての新たな道へと育っていった。
洋風建築を進めるには、輸入を必要とする建設資材が数多くあったが、八幡商業学校で貿易実務を勉強していた卒業生が数多く参加、これが近江兄弟社の前身「近江セールズ」の会社設立につながっていった。こうしたヴォーリズの考え方は、八幡商業学校との関係をさらに強固なものとしていった。
ヴォーリズの結婚
大正8年(1919) ヴォーリズ(38)は元小野藩主(兵庫)一柳徳子爵(当時の貴族院議員)の長女満喜子さん(35)と結婚、挙式をヴォーリズが設計した東京、明治学院のチャペルで挙げた。これがヴォーリズの仕事に一層の拍車をかけ、製薬会社・メンターム(昔はメンソレータム)の創業・出版事業のほかヴォーリズ記念病院(現在は総合病院)さらには近江兄弟社学園をつくり、幼稚園教育が主であった学園を、昭和26年には小、中、高校を含む総合学園に成長させるなど現在の近江八幡市の発展に大きな足跡を残していった。
ヴォーリズ神に召される
日米関係が悪化した昭和16年(1941) ヴォーリズは満喜子婦人の一柳姓をとって一柳米来留(メレル)と改め国籍を日本に移して八幡神社の神前で誓いを読み上げた。戦争が厳しくなった昭和17年秋、軽井沢の事務所に疎開、失意の毎日を送っていたが東京帝国大学から英語教師に任ずるとの辞令を受け、週一回軽井沢から東京に通っていた。ところが昭和32年、クモ膜下出血で倒れ、3ヵ月後に近江八幡の自宅に帰り、七年間にわたる闘病生活を続け、病床の中から会社の再生を図っていたが、同39年5月7日、多くの人におしまれながら帰らぬ人となった。83歳だった。市では翌年、近江八幡名誉市民第一号に選んだ。
ヴォーリズは、八幡商業学校在職中から 『丸の中に点』 の署名をしていた。これはヴォーリズが近江八幡を世界の中心と考え、その中で外人という立場を捨てて日本人となって精いっぱいの努力をしようという誓いの手形のように思えてならない。
ヴォーリズが手掛けた建築物
◇ 近江八幡市に残っている建物
▽県立近江八幡商業高校▽吉田悦蔵邸▽ヴォーリズ邸(ボーリズ記念館)
▽YMCA▽近江兄弟社学園▽近江兄弟社図書館など
◆ 県外に残っている建物
▼主婦の友社 東京都千代田区神田駿河台▼矢尾政 京都市下京区▼関西学院大学 西宮市上ヶ原▼同志社大学アーモスト館 京都市今出川▼神戸女学院 西宮市岡田山▼明治学院礼拝堂 東京都港区白金台▼活水学院 長崎市東山町▼大阪教会 大阪市西区▼神戸ユニオン教会 神戸市中央区▼近江ミッション軽井沢事務所、軽井沢診療所、軽井沢ユニオンチャーチ、軽井沢テニスコートクラブハウスなど
参考図書(近江八幡市など制作の「日本人を越えたニホン人」)
(曽我一夫記)
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第6回 − 近江八幡の星 −
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ −132号−
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