第9回 −田上の山々− 135号
黒松とヒメヤシャブシの混植
はげ山になった山腹の植樹も大変な作業、愛知郡秦荘町斧磨の篤農家西川作平さんは、近くのはげ山に黒松を植樹したが、うまく根付かず悩んでいたところ天保13年(1842)3月、夢の中で「黒松を植えるには、ヒメヤシャブシと混植するとよい」というお告げを受け、早速山々をかけ巡ってやっとヒメヤシャブシ(アクア・琵琶で植樹)をみつけ出し、松と松の間に植え込んで、背丈が高くなると延びた部分を切って、松の根に肥料として与えていた。これが見事に成功、のちこの技術を教わった甲賀郡岩根の龍池籐兵衛さんが、本格的に播種培養を行ない、その苗が現在、田上山山系のはげ山地区の山腹工事(植樹)の立役者ともなっている。
田上山の植樹については、地元の田上小のほか大石小、青山小など6校が、毎年3月ごろ2校ずつ交替で山腹につくられた段々畑に入り、ひとり1本、88人が記念植樹をしている。この情報を知った橿原市は、平成7年(1995)2月28日、藤原京創都1300年の記念事業「ロマントピア藤原京95」の一環として同市立鴨公(かもきみ)小学校5年生約70人を植樹隊員として田上に派遣した。隊員たちは「私たちの時代に1300年前の恩返しができれば」との願いを込め、地元の小学生らといっしょに記念植樹に意気を盛り上げた。
こうして田上山系の治水、緑化(山腹工)は明治-大正-昭和へと引き継がれ、技術の向上と組織の改善などによって田上の山々はここ20年で見違えるように緑を取り戻していった。
だが山の裏側は、残念ながらまだ各所にはげ山が残っており、全山が緑に覆われるにはまだまだ努力が必要だろう。琵琶湖工事々務所の「瀬田川砂防 田上山の山腹工」の最終ページに「緑の山に、もどすには100年以上の年月と多額の費用が、かかる」と書かれていた。
京阪神の人達の“水がめ”琵琶湖のたった一つの排水口を大津市南郷の洗堰という。ここから毎日必要量が宇治川−淀川を経て大阪湾に放流されている。
ところがこの洗堰左岸一帯に広がる田上の山々は、はげ山が多く、土地の人達は、白鳳時代以来の乱伐が原因で大雨が降れば土石流で被害を受け、近世になってやっと治水、砂防工事と緑化が進み、最近これらの山々が「湖南アルプス」と呼び名を変え、その道の人達のトレーニングの場となり主峯・太神(たなかみ)山(599.7b)の頂上にある平安時代の僧月珍が貞観元年(859)に建立した不動寺(天台宗・国の重文)参詣の人達に交り、新しいリクレーションの場として山の趣きを変えてきた。
乱伐の始まり
琵琶湖工事々務所の砂防年表を、読売新聞社が発行した日本の歴史第二巻「飛鳥と奈良」とつき合わせてみると、中大兄皇子(のちの天智天皇)が大和から大津に遷都したのが天智称制6年(663)3月。9年後に壬申の乱が起き、天武天皇即位と同時に都は飛鳥浄御原に変わった。だが天武天皇の在位も短く壬申の乱から十四年後には崩御、皇后の鵜野皇女が即位、持統天皇となり都を飛鳥から藤原京に移した。
持統天皇が第一に志したのは、都の建設であった。藤原京は、中国の都にならって、香具、耳成、畝傍の大和三山にかこまれた平野を都としたもので、その建設は持統天皇5年(691)10月にはじめられ皇居の造営にとりかかったのはその翌年の5月だった。そして持統天皇8年(694)には、女帝は飛鳥浄御原宮から新造の藤原宮に移った。
当時、この工事の模様が「藤原宮の役民の作る歌」として万葉集に残っている。
「わが皇子日の御子が、藤原の地で国をお治めにならうと、御殿を高く営まれようと、神にましますままにお思いになるにつれて、天地も相寄ってお仕えしているので、近江の田上山のヒノキの角材を宇治川に流しているから、それを取ろうと入り乱れて働く御民も、家をもおのが身をもまったく忘れてカモのように水に浮いていて、泉川に持ってきた真木の角材を、いかだに作って川をさかのぼらせているのだろう。その働きをみると、じつに大君は、神そのままでいられるようだ」
最初は、藤原京に都をつくるのになぜ遠い近江の国からはるばる材木を運んだのだろう?こんな疑問もあったが、この万葉の歌と、壬申の乱の立役者大海人皇子(天智天皇の弟)と鵜野皇女(天智天皇の娘)は、皇位に即く前後に、二人で何回も近江-奈良を往復して田上山一帯の豊富で、すばらしい古代美林を知り、木材運搬には淀川水系(瀬田川-宇治川-八幡から木津川)を利用すれば陸路より早く奈良に運べる。ことなど地の利を体得していた持統帝の指示によるものではなかったかと思われてならない。
度重なる乱伐
千数百年前の田上山は「ヒノキ」「スギ」「カシ」などが繁茂する一大美林だった。それを立証するのは現在、太神山々頂に残る不動寺周辺は、広い範囲で乱伐を免れ、自然の林相が残っている。恐らく仏罰を恐れたのだろう。
しかしそれ以外は、藤原京の用材だけでなく飛鳥、奈良時代の仏教の伝来や大陸文化の渡来によって奈良七大寺(東大寺など)のほか地元でも石山、三井寺などの建立で田上の山々が伐採されたようだ。そのためヒノキ、カシなどの一次美林は二次林(松)に変わった。
これも信楽をはじめ、各地の陶器製作用燃料として乱伐されたり、幾度かの戦火や焼討ち、山火事、それに庶民の日常生活にともなう燃料に使われたのも多かったようだ。
はげ山が招いた災害
琵琶湖工事々務所が作った「瀬田川砂防 田上山の山腹工」を見ると、災害記録が残っているのは宝永5年(1708)7月19日の洪水と土石流。この時は大戸川の堤防が各所で破損して中野、芝原両村の家屋が流失。そのほか上田上中野の常念寺に残る過去帳によると宝永5年の災害から明治8年(1771)の63年間に17回も土石流災害を受けたと記されているという。
昭和に入ってからも28年8月(1953)南山城を襲った台風13号で、信楽町多羅尾地区に降った300_の集中豪雨で土石流が起き、家屋を巻き込んで大戸川を暴れ下り、下流集落をなぎ倒して南郷から淀川に流入した。
この災害で多羅尾地区では死者、行方不明44人、重軽傷者130人、住居全壊40戸流失、半壊六戸、一部損壊18戸、道路はほとんど全滅、山村崩壊無数という被害をもたらした。また下流の京都府では、宇治市の大峯えん堤があふれて久世郡御牧町の淀川左岸堤防約五百bが決壊、現在の久御山全町が二階まで浸水、農作物は全滅、八幡市も一部が浸水するなど被害は大阪府にまで及んだ。
被害の原因は、田上山系が大量樹木の乱伐で、花崗岩の深層風化が進んだ地質となり、いったん木がなくなるともろいもので、豪雨のたびに表土が流出して自然破壊が進み、江戸時代には全山が真っ白になった。アクア・琵琶に展示されている明治時代の田上山系のワイド写真(白黒)は、全山が真っ白。太古の乱伐による激しい山容の変化に驚いた。
砂防工事の始まり
田上山は、わが国砂防工事の発祥の地といわれている。それにしては乱伐が始まってから約千年後の万治3年(1660)にやっと幕府が腰をあげ、木根堀取禁止と被害か所の土砂留、苗木植付を命じた。
続いて寛文6年(1666)には「諸国山川掟の令」を発布、山林の伐採を厳しく取り締った。17年後の元和3年(1683)、大水害が発生して幕府の調査団が田上山を調査、その翌年の貞教元年(1684)再び「山川掟の令」を発布と同時に、京都町奉行所に「土砂留奉行」を置き、幕命によって淀川流域の土砂留工事が始まった。
大津市田上牧町638 田上郷土史料館々長 東郷正文 077-549-0369
大津市黒津4丁目5番1号 国土交通省近畿地方建設局琵琶湖工事々務所077-546-0844
大津市黒津4丁目2−2 水のめぐみ館アクア琵琶077-546-7348
外人技師の工法を採用
田上地区の砂防工事が本格化したのは明治6年(1873)オランダ工事団の一員として来日したデレーケらが故郷にちなみ明治11年(1878)上田上桐生町の草津川にオランダ堰堤をつくり、9年後の明治22年(1889)には鎧(よろい)ダムをつくるなど帰国する明治34年までに各河川の治水計画を立てたり、実際の工事の指導に当たったほか工法に関する書物を著した。
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