「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
        いまひとたびの あふこともがな」

平安時代中期の女流歌人和泉式部の歌であることはよく知られている。


では和泉式部とはどんな人物だったのだろうか。中古三十六歌仙の一人ではあるが、当時の最高権力者藤原道長によって「浮かれおんな」と酷評されたほどの恋多き人物だったらしい。
生没年不詳ではあるが974〜978年頃の生まれとされている。父は越前守の大江雅致(まさむね)、母は越中守の平保衡(やすひら)の娘で、二十代前半で和泉守橘道貞の妻となった。和泉式部の名前は夫の任国の「和泉」と父の官名「式部」からこのように呼ばれた。結婚後、和泉式部は一時は道貞と共に和泉に赴いたが、その在任期間の後半は何故か京に戻ってきて別居していた。

 冷泉院の第三皇子で容姿端麗な為尊親王(ためたかしんのう)と出会ったのはその頃だった。それから二人は人目もはばからず激しく燃え上がる恋におちたのである。身分違いの恋だろう。その恋の代償は道貞に離縁され、親からは勘当される形となって現れた。
ところが孤独な式部が心の支えとした為尊親王は若くして病死してしまったのだった。
 それから一年、「和泉式部日記」は以下の記述から始まる。
「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく・・・」
夢よりも儚かった為尊親王との仲を、嘆きわびながら明かし暮らしているうちに初夏の四月十日過ぎにもなったので、葉が茂って木の下がだんだん暗くなっていく。塀になっている築地の上に草が青々としているのも人は特に目もとめない。女はそれをしみじみとした思いに耽りながらぼんやり眺めていると、部屋に間近い透垣のそばに人の気配がするので、「誰だろう」と思ってみれば、為尊親王にお仕えしていた小舎人(ことねり)童だった。
この童、今は為尊親王の弟である敦道親王に仕えている。敦道親王は「兄宮の恋した人はどうしていらっしゃる」と橘の一枝を届けさせたのである。


「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(古今集)
おもわず口ずさんでしまう和泉式部。返事を言葉だけで伝えては申し訳ない。
弟宮に他愛もない歌を送っても、軽率のそしりも受けないだろうと考え。
「薫る香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると」
昔の人の香りがするという花橘をいただきました。私も亡き人が偲ばれます。橘の花につきもののほととぎすによそおえて、あなたの声を聞きたいものです。同じ声をしていらっしゃるのかどうか。
使いの童が弟宮の邸に戻って手紙を差し出すと。
「おなじ枝に 鳴きつつをりし ほととぎす 声はかはらぬものと 知らずや」
同じ枝にとまって鳴いていたほととぎすのように、兄弟ですから声もあなたへの思いも変わらないとお思いになりませんか。
その後、弟宮は度々手紙を書くようになり、和泉式部は時々返事を差し上げていた。
そうしていると、無為の寂しさも少し慰む心地がして日を過ごすことができた。
そしてついにある夜のこと、敦道親王は和泉式部の邸を訪れたのだった。兄の思いも忘られぬ中、弟に通じるとは。

 和泉式部日記は、自分がはしたないと戒めながらも弟宮にのめり込んでいく女の性と、弟宮の恋心を百四十首におよぶ和歌を交えて書き綴った日記である。しかしながら「浮かれおんな」と評されて懸命に身の証を立てる女の不幸と、その式部に不信と嫉妬に苦しむ敦道親王の心の機微を見事に描き出した一級の文学作品でもある。
 この恋も敦道親王が病死して僅か四年余りで終ってしまう。藤原道長にかつて「浮かれおんな」と酷評された和泉式部は和歌の才能を認められて、道長の娘の中宮彰子のもとに出仕することになる。そこには大先輩として紫式部がいた。彼女の書いた「紫式部日記」には和泉式部のことを「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。・・・」


和泉式部という人は、(敦道親王と)趣深く手紙のやり取りをした人である。それにしても、和泉式部は感心できない面がある。気軽に(恋)文を走り書きした場合に、その方面に才能のある人で、ちょっとした言葉にも色艶が見える。(和泉式部の)歌は趣向を凝らしてある。(しかし)歌の知識や歌の理屈などからみると本当の歌詠みではないようだが、口に任せて詠んだ歌などには、必ず趣向のある一節の目にとまるものが詠み込まれている。それでも、他の人が詠んだ歌を(和泉が)非難したり批評しているのは、いやそれほど理解は深くない。本当に口をついて歌が自然に詠まれるような人のようだ。気恥ずかしく思うような立派な歌人だなとは思えまない。
紫式部も和泉式部のことをよく観察して厳しく評価しているようだ。
 和泉式部は出仕した翌年、道長の家司(けいし 注1)藤原保昌(やすまさ)と結婚して夫と供に丹後に下っている。

橘道貞との子供の小式部内侍の詠んだ
「大江山 いく野の道の 遠ければ
   まだふみもみず天の橋立」
(小倉百人一首)
はこの時の歌だ。

小式部内侍は25歳たらずで出産の時に亡くなった。
「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ
 子はまさりけり 子はまさるらむ」
(後拾遺和歌集)

和泉式部の晩年はわが娘に先立たれた悲しみのうちに無常をさとり、播州の書写山の上人に「誓願寺へ急ぎ行きて御本尊に帰依すべし」とさとされ、道長によって与えられた誓願寺近くの東北院の小堂に住み、やがてその生涯を終えたとされている。


この小堂は後に誠心院といい、誓願寺の移転とともに現在の新京極の繁華街の中に移った。和泉式部の墓(宝篋印塔)もその敷地内に移された。
和泉式部の墓は全国に十数か所あるが、和泉式部の生まれ故郷との伝承のある京都府木津町にもある。しかしやはり誠心院にある宝篋印塔が最も著名であろう。
 東北院は度重なる火災により衰微し、現在吉田山の東に移転しているが、東北院に関してはこんな話も伝わっている。
東国の僧が都に上り、早春の東北院をたずねると、梅が今を盛と咲き誇っていた。
門前の人に梅の名をたずねると、「和泉式部」という梅だという。そこに里の女が現れて、「昔この東北院に、中宮藤原彰子が住んでいた時、和泉式部は方丈を休み所としていました。軒端近くに梅を植え『軒端の梅』と名付けて愛しました。読誦して下さるならばゆきずりの者への功徳ともなるでしょう」と読経をすすめたのだった。
僧が月下の東北院のもとで夜通し読経をすると和泉式部が昔の美しい姿で現れたという。






 他にも和泉式部に関しては数多くの逸話が残っている。このこと自体が自由奔放に生きた彼女の生き様の証であり、彼女の歌が人々の心をひきつけた証であろう。

(遠藤真治記)
注1 家司(けいし)  主人にかわって知行や家政の事務を務める人物
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