出自をたどれば平安京を開いた桓武天皇の曾孫(孫:系図参照)であり、平城天皇の孫というたいへん高貴な血筋ということが分かります。菅原道真らが編纂した「日本三代実録」には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とあります。美男子であり好き勝手な行動をとる人物で、漢詩・漢文の教養がないけれど、和歌の才能はあったことが窺われます。 偉大な桓武天皇の血筋でありながら宮廷社会では出世が遅かったのは、放縦不拘で略無才覚だったからかも知れません。 しかしこれは父の平城天皇による問題行動が大きく影響していたのかも知れません。平城天皇は桓武天皇の後を引き継いだ天皇ではありましたが、体も弱く、情緒不安で3年で弟の嵯峨天皇に譲位して、自らは上皇となりました。 ところが勝手に平安京を去り平城京に戻って、ここで政治を行い出したのでした。これには上皇の愛人である藤原薬子の影響が大でした。嵯峨天皇がこんなことを許す訳がありません。兵を差し向け戦い(平城太上天皇の変または薬子の変)となったのですが、上皇側は簡単に負けてしまいます。 上皇は出家、薬子は自殺、息子である阿保親王は大宰府に流されています。そんな事情があって業平は異母兄弟の行平らとともに臣籍降下して在原氏を名乗ることになりました。 |
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系図 |
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本題に入る前に系図に出てくる人物について整理しておきましょう。 恒貞親王は仁明天皇の皇太子でしたが、嵯峨天皇の信頼も厚く権力者の藤原良房により廃太子されました。 藤原良房はこれに代えて藤原順子(のぶこ)の産んだ道康親王を立太子させ、道康親王はやがて文徳天皇となりました。
文徳天皇は紀静子の産んだ第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子としたかったのですが、ここでも良房の力により良房の娘である明子(あきらけいこ)の産んだ第四皇子・惟仁(これひと)親王を立太子させました。 そして文徳天皇の急死(藤原氏による暗殺?)により惟仁親王は9歳で即位して清和天皇となったのです。 業平は惟喬親王の母方の姪婿ということもあり親しく付き合っていたのでした。伊勢物語には、そんな2人の交流が随所に描かれています。 清和天皇の后となったのは藤原高子(たかいこ)。彼女は藤原順子の五条邸にいて、清和天皇即位にともなう大嘗祭において、五節舞姫を務め、清和天皇17歳の時、25歳で入内し女御となって貞明親王(後の陽成天皇)を産みました。伊勢物語には入内する以前、業平と恋愛関係があったとされています。 川柳にというのがあるらしいですね。 これは業平のプレイボーイぶりを茶化したものでしょう。 数多くの女性と浮名を立てたのは事実としても、鎌倉時代の伊勢物語の注釈書である「和歌知顕集」には関係した女性はな大げさに3,733人と書かれています。だからこのような川柳も生まれてくるのでしょう。蛇足ながら数で言えば西鶴の「好色一代男」の世之介は3,742人でこちらが日本記録です。 その業平の恋はいつごろ始まったのでしょうか。 それには伊勢物語の第22段に以下の話があります。 昔、田舎まわりの行商をしていた人の子どもたち二人は、筒井筒(丸い井戸の竹垣)の周りで遊んでいました。二人は成長するにつれて互いに顔を合わせるのが恥ずかしく感じるようになり疎遠となってしまいました。 二人とも相手を忘れられず、女は親の持ってくる縁談も断って独身のままでいました。 その女のもとに、男から歌が届きました。二人は歌を取り交わして契りを結びます。 (井戸の縁の高さにも足りなかった自分の背丈が伸びて縁をこしたようですよ、貴女を見ない間に) (貴方と比べていたおかっぱの髪ももう肩まで伸びましたよ、貴方以外の誰が私の髪を上げて成人のしるしとできるでしょうか) などと詠み合って、とうとうかねての望みどおり、夫婦となりました。 これが業平のことでしたらウブで純情な人柄で浮気などしないように見えるのですが、この時代は一夫多妻制で通い婚の形態でしたので、男が夜な夜な他の女性のところに出かけるということは珍しいことではありませんでした。 業平も同じでしょう。この話の女とは紀有常の娘というのが定説です。 業平が現在まで名を残している理由は関係した女性の数の多さだけではなく、摂関政治で権力を意のままにしようとする藤原氏にひと泡ふかす業平の自由奔放な所業と歌の巧さでしょう。 業平は五節の舞姫に選ばれた高子を見そめます。摂政である良房の姪で、将来清和天皇に入内させようと、良房が大切にしていた姫でした。 第6段の話は以下の通りです。 むかし男ありけり(男はもちろん業平)、到底結婚することの出来ない身分の女(高子)と長年にわたって愛し合っていましたが、ようやくその女を盗み出して暗い夜を逃げてきてきました。芥川(大阪府高槻市)というところまで落ちのびていったところ、草むらで夜露を指差して「あのキラキラ光っているものはなんですか」と尋ねました。業平は彼女を背負っていくうちに夜がふけてきました。雷も激しく鳴り、雨も土砂降りになってきましたので、鬼がいるとも知らないで粗末な蔵に入りました。女を奥の方に入れて、男は弓の矢筒を背に負って、戸口に立って女を守っていました。早く夜が明けてほしいなと思いながらじっと立っていたところ、鬼が女を一口で食ってしまいました。女は「キャー」と叫んだのですが、雷のすごい音に男は聞くことがでませんでした。次第に夜が明けていくので、振り返って見ると、連れてきた女がいない。地団駄を踏んで泣いたけれども甲斐もなかった。 (彼女をここへ連れてくるときに葉の上のきらきら光るものはなんですかと聞かれたが、そのとき「あれは露だ」と答えて、露が消えるように自分も消えてしまえばよかったのに) これは、二条の后(高子)が従姉である明子(あきらけいこ)にお仕えするような形でその屋敷に同居していた頃の話。高子がたいへん美人であったので業平が口説いて肩に背負って逃げ出しました。兄の基経や国経の二人がまだ官位は下の方でしたが内裏に参内しようとしたときに、高子が大声で泣く声をききつけて、なんだろうと見ると自分たちの妹でした。これは大変だというので、すぐに屋敷連れ戻りました。それをこのように鬼といったのだそうだ。 現実的には10代後半の女性を背負って約25km離れた芥川まで逃げるというのは不可能な事だと思いますが・・・。 |
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業平の年表を見ていると官位について興味ある事実が浮かび上がってきます。八四九年に従五位下に昇叙しましたが、翌年、文徳天皇が即位すると全く昇進が止まります。またこの時期、兄の行平の歌が古今和歌集に残っています。 その詞書に「田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける」と記されています。つまり文徳天皇の御世、事情があって摂津の国、須磨というところに蟄居を余儀なくされた云々と書かれているのです。 皇族の血筋の兄弟をこのように扱えるのは文徳天皇だけしかいないのではないでしょうか。とすれば天皇はこの兄弟と何か確執があったと推測が成り立ちます。伊勢物語第六十五段「在原なりける男」に概略以下のことが記されています。 帝がお心におかけになって、お召しになる女で、染殿の后のいとこである女。まだ若かった男と互いに知り合う仲で、親しくしていたのだった。 男は年少ということで、女官の部屋に出入りすることを許されていた。この部屋には、人が見ているのも平気で男が上がりこんで座っていたから、この女はつらい思いで実家に帰ってしまった。それで男は、これはかえって好都合だと思って、女のもとに通ったので、みんなはそれを聞いて笑った。 帝は、容貌が美しくいらっしゃって、仏の名を心に深く込めてお唱えになるのを聞いて、女はひどく泣いた。「こんな立派な帝にお仕えしないで、前世からの因縁が悪く悲しいことです。この男の情にひかれて」と言って泣いたのでした。 ここでの男とは業平、帝とは清和天皇、女とは藤原高子(たかいこ)です。ただ高子については話の展開からは業平よりも年上でなければならず順子か明子と考えるべきです。 文徳天皇にとっては自分の母親か女御と関係を結ぶ業平は最も嫌な人物だったでしょう。天皇はこの事実を知ってからは立場上、事を公にできず、苦々しい思いを抱いていた筈です。そのために業平の出世を止め、兄の行平を須磨に左遷したのだと筆者は理解しています。 それ故、文徳朝から清和朝に代わると業平の官位は上がり始めました。 業平は人の犯してはならない禁断の女性とも関係を結んでいます。第六十九段に伊勢斎宮恬子(やすこ)内親王との話が書かれています。斎宮とは天皇の妹か娘に限るという高貴なうえに潔斎して清楚で処女でなければなりません。物語の概略は以下のようです。 むかし男(業平)がいた。宮中の宴会用の野鳥を狩るため伊勢へ勅使として派遣された。斎宮は母親の静子から手紙で「この人は特別だから普通の勅使よりも大切にしなさい」と聞かされていた。斎宮はその意を受けて男を丁重にもてなしした。朝から男を狩に出発させて、夕方には自分の宮殿で饗応した。 二日目の夜、男は思い切って「今晩会いましょう」と声をかけたのだった。男に声をかけられた斎宮は人目があるので会うわけにはいかない。男は勅使一行のリーダなので宿舎は斎宮の住まいの近くにあった。人が寝静まったあと斎宮は男のところへ忍んで行った。男も寝られずにいると窓の外に朧月がさしていて、斎宮が召使の少女を先に立たせてやってきた。 男は斎宮を寝室に入れて午前2時ごろまで一緒に過し、やがて斎宮は何も言わず自分のところへ帰っていった。男はそれが悲しくて寝られなかった。朝方になって男は「恬子内親王はどうしているだろうか」と思っているところに斎宮の方から手紙がきた。 (夕べは貴方が私のとこへ来てくれたのでしょうか、それとも私が貴方のところへ行ったのでしょうか、あれは夢かうつつであったのかよくわかりません)これを見て男はたいへん泣いて (心が迷いに迷って夢うつつだったかは今晩お会いして決めましょう)と詠んで狩に出発した。 ところが宵になって伊勢守が男をもてなすということで一晩中宴会を催した。そのために男は斎宮に会うこともできなかった。 夜もしらじら明け染めた頃、斎宮方から男のもとへ盃が差し出された。見れば、上の句のみの歌が書き添えてあった。 (渡っても濡れもしない浅い川のようなご縁でした) 男は、続きを松明の燃え残りの炭で書き付け足した。 (いつか必ずやお逢いできましょう) その朝、男は尾張国へ旅立って行った。 伊勢物語り自体がドキュメンタリーを装ったフィクションですから実際にどのようなことがあったのかは読者が想像するだけです。 |
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前半部分で、業平が愛する藤原高子を連れ出し、芥川まで逃げましたが失敗に終わった話を紹介しました。この事件は藤原氏にとっては大変な出来事だったのです。 藤原氏の権力獲得方法は天皇のもとに娘を入内させて、生まれた親王を天皇に即位させることによって、岳父及び外祖父の地位を維持するというものです。 良房は権力を承継するために何としてでも血縁の女性を入内させる必要があります。 良房は文徳天皇が没すると十五歳の惟喬親王を退けて、僅か九歳の惟仁親王を即位させました。清和天皇です。 政治の実権は外祖父の良房の手にありましたが、次世代までも権力を維持するためには藤原氏一門の女性に清和天皇の親王を産まさなければなりません。 そこで白羽の矢を立てたのが十七歳の高子だったのです。業平はその深窓の令嬢を盗み出したのですから、藤原氏にとっては許しがたい人物に違いありません。 業平は藤原氏に完全に目をつけられ、都には住み辛くなりました。第九段「東下り」はそんな業平が「身を益なきものに思ひなして、東の方に住むべき国求めむとして、惑ひ行きけり」という話です。 しかし旅に出れば都のことを思いだし、妻のことを思い出しては涙を流すのでした。 「東下り」は紀行文でもあり、感嘆した富士の話などもありますが、 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。 やはり最後は都が恋しくてなりません。 東国の路を歩いた末に業平が悟ったのは、生きて行くには都に戻るしかないということでした。帰京後は勤務態度も改まり、藤原氏と争うこともなく、順調に官位も上がり始めました。
かくして高子も入内して陽成天皇を産みました。これで二人の私的な関係は終わりを迎えるはずなのです。 第七十六段「小塩の山」では、藤原氏の氏神である大原野神社に参拝する高子に業平も同行した様子を書き残しています。 昔、二条の后(高子)がまだ陽成天皇の母といわれていた時、藤原氏の氏神に御参拝になる折に、近衛府に仕えていた業平翁が、お供の人たちが褒美を戴くついでに、二条の后の御車から(褒美を)給わって、詠んで差し上げた歌。 (大原の小塩の山も、今日の参詣に当たっては、先祖の神が、神代の昔のことも、思い出していることでしょう)と言って、翁は心の中で、心にも愛しいと思っただろうか、どのように思っただろうか、それは分からない。
この段の歌は表面上二条の后の行啓を祝賀する歌のように見えますが、その裏には高子を偲ぶ深い思いが込められているのです。 この時から数年後、業平は大原野神社から南2kmにある十輪寺に隠棲して、難波津から海水を運んできて、高子を想いつつ塩竈を楽しんだということです。 十輪寺では5月28日の業平の命日は業平忌が営まれ、全国の業平
本堂の裏山には小さな宝篋院塔の小さな墓があります。 誰が言い出したのか恋愛成就のご利益があるとされ、女性の参詣者が多いとか。 業平もこんな状況になっているとは思いも寄らなかったことでしょう。 |
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業平年表 |
(遠藤真治記) | |||||
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