第49,50回,51回 |
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第49回 東日本大震災から百十日を過ぎました。未だ災害の爪痕は消えず、原発事故による人災の影響はいつ収まるとも見通しがついていません。亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。また、一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。 今回も在原業平の第三回目を書こうとしていたのですが、今のこの時期、方丈記に触れておかねばならないと思い、急遽変更しました。 方丈記といえば で始まる鎌倉時代に鴨長明が書いた有名な随筆です。 日本中世文学の代表的な随筆とされ、清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」とともに日本三大随筆とも呼ばれています。 今回何故「方丈記」を取り上げたかというと、この作品には平安末期の1185年7月9日に起きた大地震を記録しているからです。方丈記と鴨長明の詳細についてはこの地震の話に触れてからとさせていただきます。 では地震についてどのように記述されているか見てみましょう。 「山はくずれて河を埋(うづ)み、海かたぶきて陸地をひたせり[津波?]。土さけて水湧き出で[液状化現象]、巌われて谷にまろび入る[崖崩れ]。渚こぐ船は波にたゞよひ、道いく馬は足の立ち処をまどわす。 都のほとりには在々所々、堂舎、塔廟、一として全からず。 或は崩れ、或は倒れぬ。塵(ちり)灰立ちのぼりて、盛りなる煙の如し。 地の動き、家の破るゝ音、雷(いかづち)にことならず。 家の中に居れば、忽ちに拉(ひし)げんとなす。走り出づれば、地割れ裂く。 翼なければ空をも飛ぶべからず。龍ならねば雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、只地震なりけりとぞ覚え侍りしか」。(新日本古典文学大系を基準) さらに現代語訳で続けると、「ある武士(もののふ)のひとりの子で、六、七歳になっていますが、築地塀の覆いの下に小屋を作って、はかなげなることをして遊んでいたところ、急に崩れ埋まってしまい、跡形もなく押しつぶされて、目だけがちょっとばかり出ているのを父母が抱きかかえて大声で悲しみあっている様子が真に悲しくみえるではないか。 子どもの悲しみには勇猛な武士も恥を忘れるとみえて気の毒と思うが、当然のことかと思われる。 このようにひどく揺れることは暫くして止んだけれどもその余震は絶えなかった。 びっくりするような地震が二・三十回と起こらない日はなかった。十日・二十日過ぎて余震はようやく間隔があいてきて、あるいは四・五度、二・三度、もしくは一日おき、二・三日に一度など大方その余震は三ヶ月ばかり続いた。 四大種(地・水・火・風)のなかで、水火風は常に害を及ぼすが、地に至っては特別な変化はない。 昔、斉衡(斉衡2年・855年に地震があった)の頃だったか、大地震が起きて東大寺の大仏の頭が落ちたなど大層な事が起きたけれども、この度の地震ほどではないだろう。 すなわち誰もがこの世の無常を語り、僅かな欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が過ぎ、年を越せばそんなことを言葉にする人もいなくなった」。 この地震は専門家によると震源は琵琶湖西岸断層帯でマグニチュード7.8だそうです。 今回の東日本大震災に比べれば規模は遙かに小さいものですが、内陸型の活断層による地震で、激しい揺れを伴い多くの人命を奪い、構造物の破壊など、甚大な被害を引き起こしました。それに直後は余震が一日に数十回も起こったこと、それが徐々に減少しつつも3ヶ月も続いたことなど類似しているではないでしょうか。 「月日が過ぎ、年を越せばそんなことを言葉にする人もいなくなった」ということですが、東日本大震災は死者行方不明者を合わせて2万3千人を大きく超える災害ですから忘れることはできません。 しかも行方不明者の捜索や避難所生活、原発事故の問題も未だ現在進行形です。 ただ、方丈記の文で不思議なのは内陸型地震であるにもかかわらず「海かたぶきて陸地をひたせり」と津波のような記述があることです。これは何を意味しているのでしょう。 それには中山忠親という人物に登場してもらいましょう。彼は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿で内大臣を務めた人物で、「山槐記」という日記を残しています。 これによると「近江の湖の水が、北へ流れて減少し、岸辺が干上がったが、後日、元のように水が戻って岸に満ちた」ことが記されています。これが事実とすれば、琵琶湖で何か異変が起きたことになります。 METRO No.208 (2009.04)で紹介した「塩津港遺跡発掘査」のことが気になりました。 この調査報告では塩津港遺跡は十二世紀後半に土地利用が終わったとされています。
この調査では神社の瓦、桧皮、板など建物部材や五体の神像が遺跡の堀に放置されたような状態で見つかりました。 これは方丈記に書かれていた地震による地盤沈下や津波のような現象の影響で神殿が崩壊し、5〜6年後に土地利用が終わったとも考えられないでしょうか。 この後、土砂が遺跡の上を2m近く覆うのですが、この堆積層は江戸時代以降になってから堆積したものです。 東日本大震災では牡鹿で約 1.2m、陸前高田市では0.8m地盤が沈下し、多くの地域では満潮時に海水に浸かります。 地震の種類は内陸型と海洋型の違いはあるものの、このように両地震とも水没するという似たような現象も起こっていたと思います。 |
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下鴨神社の禰宜・鴨長継の次男として平安時代末期の1155年に生まれました。 次男ということで直接下鴨神社の禰宜職を継ぐことはありませんでした。 なんとか下鴨神社関連の職に就こうと就職活動をしていたようですが、結局、出家するという道を選びました。 本人はいろいろ才能があったようで、自身としては歌人であると自負していました。 二十代後半で「鴨長明集」という和歌集を編んでいます。その数年後には千載和歌集に一首載せてもらい喜んでいます。 さらに磨きをかけて四十七歳のとき後鳥羽院によって和歌所の寄人に抜擢され、「新古今和歌集」には十首入集されています。 しかしながら下鴨神社の神職の家柄に生まれながら父親のあとを継げなかったということで、大きな人生の挫折感を味わっていたと思われます。 ということで五十歳にして出家遁世の道を選んで大原に隠棲したのでした。 折しもこの時期は法然上人が浄土宗を開く時期と一致しています。 大原というのは法然が研学に励んでいた延暦寺と関わりが深い地域で、天台浄土教というのか浄土宗を開かんとする思想潮流が流れていました。 長明も直接には法然に師事した訳ではないですし、浄土宗の信者になったということはありませんが確実に影響は受けていたのでしょう。 この後1208年、日野の外山というところに方丈の庵を営み、おそらくここで仏教説話集の「発心集」を編集したのでしょう。
これは最後のところに建暦2年と書いてあるから分かるのであって、いつから書きだしたのかは書いてないので分かりません。 ただ文のイメージからして、一気呵成に書き上げたというのが多くの研究者の見方です。 |
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第50回 方丈記の成立した鎌倉時代、男性は漢字ばかりを使った漢文書きで文章を書いていました。その時代にあって鴨長明は敢えて漢字仮名混じりで書いています。 そこには自分が漢文の家の出ではなく、神職であり歌人であるという自負心があったからでしょう。そのことを意識していたと考えています。 前回は方丈記に東北大震災と似た記述があることを取り上げてみました。今回は方丈記ついてもう一度はじめから見てみましょう。 「ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。 淀みに浮かぶ泡は、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいることはない。 世の中に存在する人もその棲家もまたいつまでも変わらずそこにあることはない」。 序のところでは無常という仏教の言葉と重ね合わせてはっきりと仏教的な思想に則って書かれています。 みなさんも小学校に通っていた頃の思い出の場所、そこにおもちゃ屋さんがあり、お菓子屋さんがあったのに、今行ってみるとマンションが建っていてすっかり雰囲気が変わってしまっているというような経験をされたことがあるでしょう。いつまでも変わらないものはないというのが方丈記のテーマなのです。 「平安京の中にあっても昔あった立派な家はほとんどない。 ある家は去年焼けて今年新築したものもある。 また大きな家がなくなって、小さな家となっていることもある。 人もこれと同じで朝に死ぬ人もあれば、一方でその夕方に生まれる人もいる。 いったいどこから来て、どこへ去っていくのだろう。 この世で仮の住まいを誰のために苦心して造り、何のためにどのように飾ったら満足できると思うのだろうか。それは分からない」。 そして人と棲家の無常の例を示すために五つの災いの話を持ってきます。 【安元の大火】 「去る安元三年(1177)四月二十八日であったろうか、風が激しく吹いて、静かならざりし夜、午後八時ごろ、都の東南から火が出て、西北に燃えていった。 ついには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで燃え移り、一晩のうちに灰塵に帰してしまった。 火元は樋口富小路(現、下京区万寿寺麩屋町あたり)とかいうことだ。 舞人を宿泊させた仮屋から出火したのだという。 吹き荒れる風によって、火事は扇を広げたように末広がりに燃え広がっていった。 その時の火事で、焼失した家屋は都の三分の一にも及んだという。 男女の死者は数十人、馬や牛のたぐいは際限がない。 人の営みは、すべて愚かしく、中でも、こんなに危険な都の中に家をつくるといって、財産をつぎ込み、あれこれ苦心することは、とりわけつまらないことだ」。 尚、この安元の大火は太郎焼亡とも呼ばれます。方丈記には触れられていませんが、翌年の一一七八年にも次郎焼亡と呼ばれる大火がありました。 太郎は愛宕山太郎坊、次郎は比良山次郎坊のことで、両大天狗がそれぞれ悪さをしたということで名付けられたものです。 【つむじ風(竜巻)】 「また、治承四年(1180)四月のころ、中御門京極のあたりから大きな竜巻が起こり、六条大路の辺りまで吹き抜けたことがあった。 三、四町を吹きまくる間に、巻き込まれた家々は、大きな家も小さな家も一つとして壊れなかったものはなかった。 あの地獄に吹く業の風も、このくらいだろうと思われる。 家屋が壊れて失われたのみでなく、これを修繕しているときに怪我をして、体が不自由になった人は数知れない。 これほどひどいものがあろうか。しかるべき神仏のお告げであろうかなどと疑ったことだ」。 さらにこれは災害ではありませんが治承四年六月の平氏による福原遷都の話へと続きます。 【福原遷都】 「突然遷都が行われた。まことに思いがけないことだった。 この平安京の起源について聞いていることは、嵯峨天皇の御代に都と定まって以来すでに四百年余りも経っている。 よほどの理由がなくては、そう簡単に都が改められるはずもないから、このたびの遷都を世の人々が不安になり、心配しあったのは、まったく当然といえば当然だ。 朝廷に仕え官職にある人は、官職や官位の昇進を望み、主君の恩恵に浴することを期待し、一日でも早く新都に移ろうと努め、時勢に乗り遅れたり残された人たちは、不満を訴えながらも都にとどまった。 軒を争うように立ち並んでいた人々の住まいは、日が経つにつれて荒れていく。 旧都はすでに荒廃し、新都では土地を取り上げられた人が不満を訴えている。 こうしたことは世の中が乱れる前触れと聞いていたとおり、日が経つにつれて世間が騒がしくなり、人心も定まらず、同じ年の冬に、天皇はやはり京都にお帰りになった。 しかし、広く取り壊してしまった家々はすべてが元通りに再建されなかった」。 養和元年(1181)から二年にわたる飢饉の話があり、ここでは旱魃(かんばつ)・大風・洪水など悪いことが続いたと記されています。 【養和の大飢饉】 「インフレになり、乞食は路上に増え、悲しむ声は耳に満ち溢れた。 餓死者も続出し、どうしようもなくなった者が古寺に行き、仏像を盗み、堂の中の仏具を壊して盗ってきて、割り砕いて売っている。 濁りきった末法の世に生れ、このような情けない行いを見てしまった。 また、しみじみと感動することもあった。お互いに愛し合った夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。 なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、たまたま手に入った食べ物も、相手に譲るからだ。 だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。 また、母親の命が尽きているのも知らないで、なおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあったそうだ」。 つい先月の九日に千葉県で二歳の子供を餓死させたとして両親が逮捕されたというニュースを聞きました。他にも幼児虐待を続ける親の話を何度も聞きます。 いったい世の中はどうなったのか、この豊かな平成の日本で餓死などあってはいけないと怒りすら覚えます。 そして前回の話で取り上げた元暦の大地震の話になり、ここまでで大火、竜巻、遷都、飢饉、地震の五大災厄の話は終わります。 その次に世俗の住みにくさ、処世の不安を綴っています。 「すべて世の中が生きにくく、わが身と棲家とが、儚く頼りないようすは、これまで述べてきたとおりだ。 ましてや住んでいる場所や身分によって心を悩ませることは、数え上げられるものではない。 もしも貧乏で、金持ちの家の隣に住む者があるとすれば、明けても暮れてもみすぼらしい自分の姿を恥じて、こびへつらいながら自分の家を出入りするようになる。 自分の家族や召使いが、隣家をうらやましがっているのを見るにつけても、また金持ちの家の者が、こちらを無視して軽蔑しているようすを聞くにつけても、自分の心は絶えず動揺して、少しの間も心が安らかにならない。 もしも人家がひしめく狭い土地に住んでいれば、火事が起こると延焼を免れることはできない。 もしも辺鄙な土地に住んでいれば、都への往来に苦労が多く、盗賊の被害にあうことも甚だしく多い。 世間の習慣に従うと、身が窮屈になり、従わないと、狂人のように見られる。 いったい、どんな場所に住んで、どんな仕事をしたら、少しの間でもこの身を安住させ、ほんのひと時でも心を休めることができるのだろうか」。 方丈記の前半を読んでいると、どうも鴨長明は金持ちや権力者に頭が上がらず、人付き合いを避けているようで、ウジウジした僻みっぽい性格ではないかと思えてきます。 次回は後半部を読んで考察してみることにいたします。 |
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第51回 方丈記は全体で5段から構成されています。第3段では長明の住まいの変遷を書いています。 初めは父方の祖母の家屋敷を引き継いで、そこに住んでいたのですが、縁故を失って長明の立場も弱くなり、三十歳を過ぎてそこを出て行きます。賀茂川の河原に近いところに小さな住まいを作ったのですが、水害の心配や、盗賊に襲われる心配も多かったのです。 いろいろなつまずきを経験して、自分のはかない運命も悟ったので、五十歳の春を迎えて、出家して俗世間から離れ、大原の雪深い山中に住んだのです。 そして「六十歳の露のようにはかなく命が消えようとするころになって、更に晩年を過ごす住まいを構えることとなった。 いわば、旅人の一夜の宿を作り、老いた蚕が繭をいとなむようなものである。 この庵は、壮年のころの住まいに比べると、百分の一にも及ばない小さなものだ。 あれこれというほどに一年一年老いていき、住まいは移転するたびに狭くなる。その家の様子は、世間一般のものとは全然似ていない。 広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも満たない。 場所を思い定めたくはないので、土地を選び定めて作らない。土台となる材木を組み、おおいとなる屋根を葺いて、継ぎ目ごとにかけがねを掛けている。 もし気に入らないことがあれば、容易に他の場所へ移そうとするためだ。 その建物の建て直しに、どれほどの手数がかかろうか。 車に積めばわずかに二両、車の引き賃を払うほかにはまったく他の費用はいらない。 今、日野山の奥に隠れ住むようになってから、庵の東に三尺あまりの庇を差し出し、その下で柴を折りくべて炊事をする場所とした。 南に、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を作り、北に寄せて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢像を画(か)け、その前に法華経を置いた。 東の端には蕨の穂が開いたのを敷いて、夜の寝床とした。 西南に竹のつり棚を構えて、黒い皮製のつづらを三つ置いてある。 それは何かといえば、和歌・管弦に関する書、往生要集というような注釈書を入れてある。 そのそばに琴、琵琶それぞれ一張を立ててある。世に言う折琴、継琵琶がこれである。仮の庵のありさまは、このような具合である」と日野山の方丈の有様を述べています。 ここで阿弥陀の絵像、普賢像、法華経という表現から長明は天台浄土経の思想の中で生きていた事の証明になります。 またここに出てくる琵琶に関してはかなりの名手だったようで、まだ許されていない曲も弾いて師匠に破門されたという事実もあります。 方丈の庵の周りは、「春は藤の花の波が見え、浄土からの便りのように美しく映えている。 夏は郭公の鳴き声が聞こえ、死出の旅路の道案内を約束してくれるようだ。 秋はひぐらしの声が耳に聞こえて、空蝉がこの世を悲しむように聞こえる。 冬は雪を見ていて、その積もっては消え、消えては積もる雪は人生の罪障にたとえられるようだ。 山守の子供と遊んだり、炭山を越え笠取を過ぎて岩間寺へ参詣するとか、石山寺をお参りしたこと、或いは粟津まで歩を進めて、蝉丸の庵跡を訪れたり、田上川を渡って、猿丸太夫のお墓を尋ねるなど遠出をした」ことが述べられています。 1日の歩行距離は山道も含めて40kmぐらいのときもありました。子供は10歳程度、長明は60歳、何と元気な事でしょう。 「静かな夜には、窓から見える月に、旧友のことを思い、猿の鳴き声に涙ぐんだことなどもあり、山鳥がほろほろと無くのを聞けば、死んだ父や母が呼んでいるのかと思って、俗世から離れたことを実感する。ここはそれほど深山ではないので、ふくろうの鳴き声をしみじみ聞いたりして、山の風情は季節によって尽きることがない。ましてや、自然の趣を深く思い、深く知ろうとする人には、(私の思う)以上のものがあるに違いない」このように方丈の生活を楽しげに書いています。 この次の第4段落からは読者に問いかけるというか挑みかかるような文章に変わります。 「日野の外山に住み始めた頃には、ほんの暫くと思っていたのだが、すでに5年を経過した。 仮の庵といいながら、ここももはや故郷となってしまった。事のついでに都の事を聞くと、私がこの山に入ってからも、多くの高貴のお方が死んだ。そういう身分でない人々だったらもっと死んでいるだろう。 そしてその背後には度々の火事によって消失した家々もまた幾つあったことだろう。(私の場合は)こういう仮の庵であるからこそ、何事もなく無事に過ごせて来られたのだ。物事を知り、世の無常を知れば、無益な願いは持たず、右往左往はせず、ただ閑静をのみ望み、悩みの無いことを楽しむ」。 さらに続きます。いよいよ長明の主張です。 「世の人が家を造るのは、必ずしも、自分のためにするのではない。時によっては、妻子や従者のために造ったり、或いは親しい者や友人のために造る。 また或いは、主君や師匠のために造り、財宝や牛馬のためにも造ったりする。 私は、今、自分のために庵を造っているのだ。 何故ならば、この世にあって、家族もなく、頼りにするような使用人もいない。だから、広く造っても宿す人がいない、住まわせる人が居ない」というように謙遜しているようで、威張っているような感じです。 「友人というものは富んでいる人を優遇し、親しい者を優先する。 必ずしも、情があるとか、素直であるなどを好むわけではない。 だから、楽器や自然を友として生きるのが一番だ。従者は、恩賞を沢山くれる人や、よく面倒を見てくれる人を重んじる。優しくいたわってくれるとか、心安い人とかを願うのではない。 だから、従者を持つのではなく、自分自らが自分の従者となるのが一番だ」。 そしてどのようにして自分自身を従者とするかといえば、やるべきことは自分の体を使ってやる。それで疲れることがあっても、他人に気を配るよりこの方が気が軽いという。 自分の体には手という使用人、足という乗り物があって、私の言うことをよく聞いてくれるとも書いています。ただし心と体が元気な時は手足を使うが、過労になるまでは使わない、やる気がないようなときはこれではいけないという強迫観念には陥らず何もしない。 「常に体を動かし、常に働くのは、かえって体を養生することになるのだ。どうして無益に休む必要があろうか。人を苦しめるのは罪業なのだ」と負け惜しみのような、かつての和歌所寄人だった藤原定家や藤原良経などに対して去勢を張っているようにも思われます。 そして衣食についてもこんなことを書いています。 「人と会わないのだからおのれの姿の貧しさを恥じるまでもない。食べ物が少ないのだから、これは甘受するしかない」。 読んでいて、思わずこれを言っちゃお終いだ。進歩がないぞと呟いてしまいました。 この辺りにも長明が虚勢を張っている姿が目に見えるようです。 そして「すべてこのような楽しみを豊かな人に向かって言うのではない。 ただ、私の一身上に起こったことを、昔と今とについて語ったまでだ」。 かつて付き合いのあった貴族、後鳥羽院の周りの連中、下鴨神社の神職達を意識しているかのようではありませんか。 だから前回、長明は僻みっぽいのではないかと書きましたが、ここではっきりとそのことが証明できているのではないでしょうか。 そして最終の段落になります。文調も変わります。 「さて、私の一生も、月が西に傾いて山際に近づくように残り少なくなった。たちまちのうちに死がやって来て、三途の闇に向かおうとしている。 今さら何の愚痴も言うまい。仏の教えるところ によれば、何事にも執着するなという。 今、この草庵を愛するのも、この閑寂さにこだわるのも、事に触れて執心していることになっているではないか。どうして、このように大事ではない楽しみを書き連ねて、残り少ない時間を無駄に過ごしてよいものか。 静かな朝、そんなことを考えながら、自分の心に尋ねてみた。俗世間を逃れて山林に分け入って身を隠したのは、心を修養して仏道を修めようとするためだった。 ところが、お前は、姿は聖人でありながら心は俗世間の欲に染まっている。 住まいは、浄名居士の庵に住んだという真似をしているが、その修業の行いは、どうやら、悟りを開くことができなかったころの周利槃特(物覚えが悪かったが悟りを開いた僧)の行いにさえ及んでいない。 もしやこれは、お前の貧賤の因果が自分を悩ましているのか、はたまた迷いの心が気を狂わしているのか。その時、私の心は答えることができない。 ただ、舌を動かして、大した願いもなくただ阿彌陀仏と口に出して見たが、それとても二三遍して止めにした。 時に、建暦二年三月の晦日、僧門の蓮胤(鴨長明の法名)、外山の庵でこれを書き記した」。 筆者も読者の方に「お読みください」と呟いて、筆を置くことにいたします。 |
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(遠藤真治記) | |||||
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