第52回 |
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世界遺産を見に行こうと木枯らし舞う奈良公園に出かけてみた。そこには春日大社、興福寺、東大寺という世界遺産に登録された歴史ある社寺が点在している。奈良に都がおかれたのは710年。それから1300年近くの時が流れた1998(平成20)年、世界遺産委員会により、「古都奈良の文化財」として世界遺産リストへの登録が決定された。 世界遺産へ登録されたのは、社寺が個別に評価されたのではない。 文化遺産としての建造物群や自然遺産としての山や森とが一体となった文化的景観が守られていることが必要なのである。
一通り公園内を歩いたのち、その南の町屋が立ち並ぶ地域に入ってきた。ここは奈良町という。ただし奈良町というのは通称で奈良町という行政地名はない。 ここは平城京遷都後にまちづくりが始まったという平城京の「外京(げきょう)」である。あみだ籤のように細く入り組んだ道、この狭い街路に、町屋が数多く建ち並ぶ。 この地区はほぼ全域が元興寺(がんごうじ)の寺域であった(METRO176参照)。奈良町は奈良市の都市景観形成地区に指定され、さらに元興寺も世界遺産に登録されている。 ところがこの元興寺はもともと奈良町に建てられた寺院ではなく、蘇我馬子が飛鳥に建てた日本最古の本格的な伽藍寺院であった。 仏教が伝来したのが538年(諸説あり)。蘇我氏と物部氏による崇仏・廃仏論争が起こり、結局587年、蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより仏教受容の態勢が整った。 これにより蘇我氏の氏寺として六世紀末から七世紀初頭にかけて(日本書紀には593年11月)飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)が建てられた。 それが710年、平城遷都にともない、718年に法興寺も平城京に移築することになった。そして寺名を元興寺に改め、南都七大寺のひとつに数えられる大寺となったのである。 寺域の大きさは南北約480m、東西約240mという広大なものであった。この寺地は「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれたという。 万葉集にも「」(巻六−九九二 大伴坂上郎女) 「ふるさとの飛鳥もいいけれど、華やかな平城の飛鳥を見るのもいいものだわ」と詠まれている。 元興寺は平安時代の前半期までは仏教界の指導的な役割を果たし、盂蘭盆会、灌仏会、文殊会、仏名会などこの寺が起源である。 しかし、中世以降次第に衰微していき、さらに室町時代の土一揆や江戸時代の火災で金堂など重要な堂塔などが消失した。 現在の元興寺は伽藍図で東室南階大房の赤く塗られたところに極楽坊(本堂)と禅室が残るのみとなっている。 それではこれらの建物を見てみよう。 先ず本堂にあたる極楽坊であるが、正面から見れば違和感を持たれるのではないだろうか。 それは柱の数が奇数であるが故に正面中央に柱が立っているからだろう。
元興寺の改築は平安末期に行われた。そしてその名前が極楽坊であることから「極楽往生」が意識されていたことは想像に難くない。 つまり西方浄土を拝むのであるから建物は東向きでなければならない。奈良時代に建った時は南向きの建物であるから、これを東向きの正面にするには中央に柱が残こさざるを得なかった。 |
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普通ならこの側面がお堂の正面となっているだろう。これも違和感の要因の一つだろう。 最初に飛鳥に法興寺が建てられるとき百済からの多くの人が協力するために渡来してきた。 寺大工、瓦博士、鑪盤博士(相輪の設計製作をする人物)、画工などである。 こうして完成した飛鳥の法興寺は日本で最初の寺院であるとともに日本で最初の瓦を使用した寺院でもあった。 この瓦は法興寺が奈良の元興寺に移ったときも運び出されて一部使用された。 下の屋根の写真を見ていただきたい。二種類の瓦が使用されているのが分かる。重なり合っている丸瓦がその時の瓦だという。とすればこの瓦は千四百数十年前の瓦ということになる。この瓦の葺き方を行基葺というのであるが、奈良時代の僧である行基の生まれる前の瓦であることは明らかである。
仏教を広めるため全国各地に寺院を建築したことにより、彼の建築した寺院の屋根がおそらくこのような丸瓦を重ねた葺き方ではなかっただろうか。 したがってこの葺き方をいつしか「行基葺」というようになったと思われる。
もう一つ、元興寺には古代寺院にはない特徴がある。 それは現在の境内の中に墓があるということである。 奈良時代の寺院は鎮護国家の為の祈りの場であった。 現在のように仏教と葬儀とは連動してはいなかった。 前述の通り平安時代後期以降は衰退して、広大な境内に一般庶民が次第に住むようになってきた。
末法思想がいきわたってきたのは、何も貴族社会だけではない。庶民の中にも浄土へ憧れる者もいただろう。 極楽坊の名前が示すように元興寺はそうした町衆の墓所や供養所、念仏講を行う場になっていった。 こうして鎮護国家の寺院から庶民信仰の寺院へと変貌と遂げていったのである。そのため貴族だけの古代寺院である元興寺境内に庶民の墓が存在するようになったのは古都奈良の他の古代寺院とは特徴が違うのである。 世界遺産に登録されることによって、観光客を呼び込もうとする動きがあり、これが過疎地対策につながるという思惑が地公体や観光関連業者にある。 これを否定するつもりはないが、そもそも世界遺産条約は顕著な普遍的価値を有する文化遺産及び自然遺産の保護を目的にしているのであって、観光開発を促進することではない。 例えば岐阜県白川郷の場合は登録直前の数年間には毎年60万人代で推移していた観光客数が、登録後は140〜150万人代で推移するようになってきている。 当然これによって遺産そのもの維持が困難になったり、地元と住民との間でトラブルも発生しているようである。 奈良市の場合は、観光客数は年間1300万人程度で、直近10年間で微増減を繰り返している。是非このままの状況を継続して、安易な観光開発が行われない様期待する。 |
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(遠藤真治記) | |||||
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