第53回、54回 |
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平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからずただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ」は暗記されている方も多いのではないでしょうか。 「その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王(かづらはらのしんのう)九代の後胤、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫、刑部卿忠盛(ただもり)朝臣の嫡男なり。かの親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望王の時、始めて平の姓を賜って、上総介(かずさのすけ)になり給ひしより、たちまちに王氏を出でて人臣につらなる。その子鎮守府将軍良望、後には国香(くにか)とあらたむ。国香より正盛にいたるまで、六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず」。 この文を追って平氏を探ってみましょう。 桓武天皇の皇子葛原親王の孫の高望王(たかもちおう)のときに宇多天皇の勅命により平朝臣姓を賜わり臣籍降下し、平高望を名乗ったのが平姓の始まりです。 天皇の子供は親王(内親王)、その子の世代を王といいます。これらを合わせて王家と呼びます。気付かれたでしょうか、今年のNHK大河ドラマ「平清盛」で「王家」という言葉がよく使われていますがこのことを指しています。王家の人数が増えて行くと臣下に下ります。この時臣下を区別するために姓が与えられるのです。姓をもらうということは臣下に下るという意味合いもあるのです。 平高望は上総介に任じられ国香、良兼、良将を伴って関東に下ります。ここで高望親子は在地勢力と関係を深め武士団を形成しました。 国香は、甥の平将門の乱で935(承平5)年に死亡。子の貞盛は都で左馬允として在任中でした。急遽帰国し将門と戦いましたが苦戦を強いられます。一時は都へ逃げ帰ったこともありましたが940年にようやく将門を討つことができました。 その後貞盛はそのまま関東の地で活躍し、都でも認められ最終的には従四位下に叙せられ「平将軍」呼ばれるようになりました。その息子の維衡(これひら)は都での最高権力者である藤原道長に仕えたこともあり、伊勢守、下野守、伊勢守、上野介、常陸介となりますが、実際には任地に赴かない遥任国司でした。 しかし、同族の平致頼と伊勢の国で覇権争いをした為、これがもとで、一時、淡路国へ移郷となったこともありましたが、伊勢国に地盤を築き伊勢平氏の祖となりました。正度、正衡時代は特に目立った動きはなく平家物語にいう諸国の受領のままでした。その平氏が表舞台に出てくるのが正盛のときです。 正盛はどのような活躍をしたかというと白河上皇に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、1108年、出雲で反乱を起こした源義親を討ち、これにより伊勢平氏が河内源氏に代わり武士の第一人者になったと認められます。そして白河院の近臣として隠岐守、若狭守、因幡権守、但馬守、丹後守、備前守、讃岐守を歴任しています。 また平家物語の中では平清盛の母と書かれている祇園女御に仕えていることから、祇園女御が清盛の母であることは間違った記述でしょう。 正盛の子、忠盛は白河院にも仕え、鳥羽院にも仕えて武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任しました。 また、鳥羽院のために得長寿院を造営し、これを寄進した功績により内昇殿を許されています。つまり、殿上人になった訳ですが、これは武士でありながら貴族に匹敵する地位を得たということです。得長寿院というのは三十三間千体観音の御堂で左京区岡崎にありました。 当時は極楽往生するためには寺院や仏像を造ることであると信じられていました。しかも大きければ大きいほど、多ければ多いほど極楽に近付けると考えられていたのです。 |
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しかしながら平氏が滅んだ1185年のこと、平家物語の巻十二「大地震」の段に「同七月九日の午刻ばかりに、大地おびたたしくうごいて良久し。 赤縣のうち、白河のほとり、六勝寺、皆やぶれくづる。九重の塔も、うへ六重ふりおとす。得長寿院も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし」とあり、得長寿院は現在その姿を見ることはできません(第49回 方丈記参照)。 1146(久安2)年、忠盛は受領の最高峰の地位とされるであり播磨守に任じられました。この地位は受領から公卿への昇進する前段階だったのです。しかし、1153(仁平3)年、忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で死去しました。
この忠盛に育てられたのが平清盛です。 清盛の母のことはよく分からないのですが、「中右記」によると「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事があり、平忠盛の妻(仙院の辺)が亡くなったことが記されています。 おそらくこの女性が清盛の母ではないかと思われます。「仙院の辺」とは白河法皇に仕えたという意味で、ここから清盛が白河院の落胤説が出てきていますが真実は闇の中です。 清盛が平氏棟梁となったあと保元の乱(1156)で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱(1159)の勝利者となり、有力な源氏武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握したことになります。
清盛の正室は高階基章の娘で重盛、基盛、継室の時子の間には宗盛、知盛、重衡、徳子ら子供が生まれています。また、時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり、二条天皇・後白河上皇の双方に仕えていました。 しかし、後白河上皇と平滋子の間に憲仁親王(高倉天皇)が1161年に生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策したことにより、二条天皇は激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止しました。 清盛は二条天皇を警護することで、天皇の厚い信任を受けています。一方では清盛は後白河上皇にはその御所である法住寺殿内に蓮華王院三十三間堂を創建(1164)しています。 翌年の7月28日には二条天皇が崩御しました。後継者の六条天皇は幼少であり、後白河上皇は勢力を盛り返してきました。 清盛は兵庫福原に別荘雪見御所を造営して、日宋貿易によって莫大な財貨を手に入れ、1169(嘉応元)年に後白河上皇は出家して法皇となりますが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめます。 平氏一門は隆盛を極め、全国に五百余りの荘園を保有し、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われるようになったのでした。 |
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権力と財力を手にした平氏ですが、やがて驕り高ぶるのは人の世の常なのでしょうか。 1170年7月3日に「殿下乗合事件」というのが起こりました。摂政藤原基房の行列と、遠乗り帰りの平資盛(すけもり)の一行が路上で出会いました。資盛というのは清盛の孫です。 当然、資盛が乗り物から降りて基房に挨拶するのが礼儀なのですが、資盛はそうはしなかったのです。 基房の家臣達はその無礼を咎め、辱めを与えたのです。帰邸してから基房は相手が平清盛の孫、重盛の子と知って家臣である事件の当事者を引き渡して重盛に詫びました。 しかし、重盛の怒りは激しく、これを拒絶しました。基房は自ら家臣を処罰しましたが、それでも重盛の怒りは収まらなかったのです。 7月15日基房は法成寺参詣に出かけようとしたところ、二条京極の辺りに重盛の兵が集まって基房の行列を待ちかまえているという情報が入り基房は参詣を中止しています。 10月21日、基房が高倉天皇の元服の定めを行う朝議に出席するため参内しようとしたときのこと、行列が大炊御門堀川の辺りで、平氏の武士に襲われました。 行列の前駆の五人が馬から引きずり落とされ、四人が髻(もとどり)を切られるなどの乱暴を加えられ、基房は参内もできずに引き返してしまいました。 その為、朝議は延期されました。もっともこの話は「平家物語」には重盛が諫言したにもかかわらず、清盛が激怒した首謀者として描かれていますが、同時代の日記「玉葉」や「愚管抄」によると前述のようだったのです。 この年のこと、清盛は後白河法皇と共に東大寺で受戒。さらには後白河法皇を福原に迎えて船遊びに興じ、宋の特使に会わせています。1171年には、王家との結び付きを強化するために義妹の建春門院滋子が生んだ高倉天皇に自分の娘である徳子を入内させ、翌年には中宮となっています。 1176年3月、後白河法皇の五十歳を迎えた祝賀のために院の御所・法住寺殿において盛大な式典が催されました。 このとき建春門院・高倉天皇・建礼門院・上西門院・平氏一門・公卿が勢揃いしました。思えばこの頃が平氏の繁栄の絶頂期を迎えていたのでしょう。 建春門院の平氏と王家をつなぐ役割は大きく、後白河法皇の寵愛を受け、朝廷内のバランスを安定させていた人物でした。しかし、この年の6月に建春門院は病に倒れ、翌7月に帰らぬ人となりました。 全盛期というのは短いものです。建春門院の死によって世の中が変わり始めます。院近臣と呼ばれる貴族の中から反平氏の勢力が現れてきます。この動きはやがて鹿ヶ谷事件へと発展していきます。 1177年4月、鹿ヶ谷事件が起こる三カ月前のこと、加賀国目代(もくだい・代官)藤原師経は、比叡山の末寺白山湧泉寺の境内にある温泉で馬を洗ったことから寺僧と論争になり、寺を焼き払って帰京するという事件が起こりました。 白山勢力は本寺の比叡山延暦寺に通報、延暦寺を通じて師経と国司の藤原師高兄弟の処分を院に求め、神與を奉じて強訴の結果、師経は備後国へ流罪、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人を拘禁することで決着がつきました。 師高・師経兄弟の父親・西光も一時配流が決定されましたが後白河法皇の取り成しでお咎めはありませんでした。 そして6月、後白河法皇の側近で法勝寺の執行の地位にあった俊寛の鹿ヶ谷の山荘で平氏討伐の密議が行われました。 この密議に参加していたのは俊寛の他、藤原成親、源行綱(多田行綱)ら院近臣の関係者だったのです。ここに後白河法皇がかばった西光も入っていました。 多田行綱はこの計画の無謀さを悟り清盛に密告したことにより、鹿ヶ谷事件が発覚し、成親、西光は処刑、俊寛らは鬼界島に流されたのです。高い地位にあった貴族や僧を清盛が独断で処罰をしたことで平氏憎し機運はますます高まっていきました。 1178年11月、建礼門院徳子が高倉天皇の第一皇子を出産しました。この子が即位すれば清盛は天皇の外祖父となり、平安貴族の藤原氏のように摂関家になれることを夢見たのかもしれません。 清盛は皇子を皇太子にすることを後白河法皇に迫り、さらに一ヶ月後には立太子させました。 反平氏の意を強めていた法皇は清盛の嫡男・重盛が亡くなるとその知行国だった越前国など所領を勝手に没収し、平氏勢力を排除する行動に出ます。
後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)も所領没収され、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となったのです。 1180年4月9日、以仁王は源頼政と謀って諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下しました。 「平家物語」には挙兵を呼び掛けたのは源光信(美濃源氏)、源行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏 : 本誌2008年9月号「もう一人の義経」参照)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐源氏)、伊豆の源頼朝、陸奥の源義経などとなっています。 この令旨を伝達する役目を負ったのが以仁王と近い関係にあった源行家で4月27日には源頼朝に伝えたとされています。 さらに行家は諸国を回りましたが、この令旨のことを平氏に密告した者がいました。 5月15日に検非違使・平時忠は三百余騎を率いて以仁王を捕まえに行きますが、危機一髪のところで園城寺(三井寺)に逃れました。 ここで源頼政と合流し、南都興福寺に逃げ伸びるとき、宇治平等院で平氏軍二万八千騎に追いつかれ、多勢に無勢、頼政は以仁王を先に逃がして自刃、以仁王はさらに逃げ伸びましたが山城国相楽郡光明山鳥居の前で討ち取られました。 この事件をきっかけに、源頼朝、木曽義仲が相次いで挙兵、興福寺や東大寺といった南都勢力が明確に平氏に反旗を翻しました。 |
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平氏は正盛の時代に力をつけ、白河法皇の時代に都の治安のために重宝されてきました。その活躍で殿上人となり、武士であるよりも摂関政治を行ってきた藤原氏を模倣してきたようなところがあり、東国で武士として戦ってきた源氏とは精神構造からして違っています。 そのいい例が平維盛と源頼朝の富士川での合戦では、平氏軍は戦い前夜に水鳥が一斉に飛び立つ音を聞いて、源氏の夜襲と間違えて逃げ帰ったという話はあまりにも有名です。 1181年2月4日、平清盛は病熱の為に「頼朝の首を墓前に供えろ」と言い残してこの世を去りました。 もはや旧貴族勢力、南都仏教勢力、地方武士勢力を敵に回して支配を続ける力は平氏にはありません。 一ノ谷、屋島、そして壇ノ浦へと追いつめられ、最後は次々と海の中へ身を投じて平氏一門は滅亡したのでした。 |
●平清盛関連年表
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(遠藤真治記) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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